▼関西を代表するテクニカルギタリスト
池田定男さんにインタビュー!
池田定男さんは、1970年、ビートルズやベンチャーズに憧れて音楽活動を開始。 1978年に北野タダオとアロージャズオーケストラに加わり、あらゆるジャンルの音楽をこなすマルチギタリストとして頭角を現した池田定男さん。 |
その後は由紀さおりさんや阿川泰子さんなど、有名シンガーのバックバンドで堅実なサポートを行う一方、フリーギタリストとして、スタジオワークやジャズ・ロックのライブなど、多方面で活躍されています。
その音楽生活は40年を超え、現在は大阪芸術大学で講師を勤める傍ら、ご自身のバンドで定期的にライブを行うなど、意欲的に活動を行われています。
ハピスロ世代は、そんな池田さんにインタビューを行ってきました!
まずは常時40本(!)は所有されているというギターの中から、思い入れの深い数本を見せて頂きます。
こちらは珍しい7弦ギター。 池田さんが特注されたもので、ヘッドには池田さんの星座であるスコーピオン(サソリ)がデザインされています。
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こちらはヴィンテージのジャズギター。 これは1970年代に友人の方から譲り受けたものだそうで、当時の価格で25万円程。 初任給が3万円程度だった時代に、月賦で5万円ずつ支払われたそうで、ギターにかける池田さんの情熱が伺えます! |
以下は、インタビュー記事をお届け致します。
▼池田さんにとって初めてのギターとは?
中学2年の頃、ゴミ置き場に置いてあったクラシックギターを拾ってきた。 ベンチャーズの音が出したかったから、まず胴の部分を半分にスライスした。それに裏板を張り付けて弦を張って…。 |
エレキギターにするにはマイクが必要。
冬休みに市場で日給500円のバイトをし、3,000円のギターマイクを買った。アンプがなかったから、ラジオにつないで音を鳴らしてみた。今思えば無茶な事をしていたなと思うけれど、その時は単純にエレキの音が出たことに感動したね。
↓思い出のギターマイクがこちら
▼ギターを持てば不良と呼ばれる時代。
学生時代は朝から晩までアルバイトをする日々。当時はまだプロになりたいとまでは考えていなかった。もともと物を作る事が好きだったから、パティシエとして就職した。
20歳過ぎの頃、本業のパティシエをする傍ら、天満にあったキャバレー「赤い靴」で楽器を弾くアルバイトを始めた。「弾かなくてもいい、立っておくだけでいいから。」と言われ、ウッドベースを持ってステージに立った。そこでキャバレーという華やかな世界を知った。
本業の給料が3万円くらいだったのに対して、キャバレーでのアルバイトは月に5万円程もあった。
クリスマスの時期はケーキがよく売れる。本業が忙しくなって一旦はアルバイトを辞めたけれど、やっぱり無性に音楽がやりたくなって、そこから本格的に音楽の道へ進み始める事になった。
▼スタジオミュージシャンとしての技術を磨く
結婚して子供ができると、やはり稼がないといけない。となると、スタジオでの仕事をできる様にならないと、と思った。その為にはまず譜面が読めるようになり、色々な音楽に精通しないといけない。
耳コピして譜面に起こして…という作業を独学で続けていた。 当時は今の様に情報が手に入らないから、何でも独学で学ばないといけなかった。音楽をやりたい!という強い意志がないと、続けていく事は難しかったと思う。 |
今はネットで情報が簡単に手に入るし機材も豊富だから、上手な人は沢山いると思う。だけど仕事がない。僕らの時代は、キャバレーのステージに立って、ある意味練習しながらギャラをもらえる様な時代だった。だけど今はそういう訳に行かない。
仕事をするためには、自分の好みのジャンルだけじゃなくて、色んな事ができないといけない。様々な音楽に触れないと!
インタビューは次回へ続きます!
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