tinc さんの日記
2020
6月
2
(火)
11:15
本文
私の在籍した中学校は治安が悪かった。私はいわゆる不良ではなかったが貧弱な卑怯者であったので、暴力沙汰の際にはよく粗末な武器を使った。ある時その武器で他校の生徒に後遺症の残る怪我を負わせたことが明るみに出て、警察も関与する問題になったことがあった。
私の母はその時泣いて「産まなきゃ良かった」と言った。母を嫌っていた私はそれが痛快で、「ざまあみろ」と言って笑っていた。自分の子どもには平気で暴力を振るっていた母親が、自身が世間から非難されることを嘆いているのがとても嬉しかったのである。
その件以降私は行ったり行かなかったりの状態だった学校から更に遠ざかり、毎日山道や河原を散歩するようになった。その頃から何となく内心に変化のようなものを感じていたが、それが何なのかはまだ分からなかった。
学校へ殆ど行かなくなってから何週間か経ったある日、家の近所で小学校の頃の同級生にばったりと出会った。彼は私と同じ中学校へ入学してから数日でその中学校へ来なくなったのでおよそ一年半ぶりの再会であった。私は彼を散歩に誘い、よく行っていた河原まで一緒に歩いて並んで座り込んだ。
彼は中学校の騒がしさと無秩序が嫌で行かないのだ、家ではテレビゲーム等をして過ごしている、と話してくれた。そして私に、「暴力はよくないと思う」と言った。
この時に私は大きな衝撃を受けた。私はおそらく内奥では暴力や騒動を嫌い、静かで平和な環境を好んでいたのだが、それを私に向けた言葉として他者から伝えてもらえたことが無かったために自覚できなかったのだと思う。静かで平和なのが好きだから山道や河原に一人でいると心が落ち着いたのだろう。傷つけ合い奪い合うことはありふれているけれども、それは物事のあるべき姿ではない。目指すべきは平和である。そのことを自分一人では信じられなかったところへ、大して私と親しかったこともなくどちらかといえば私を嫌っていたはずの彼が教えてくれたと思った。
「そうだよな」と私は泣きながら言った。
「うん」と彼は短く平坦に答えた。
私はその日帰宅した時から、母親を故意に挑発して怒らせることをしなくなった。顔を合わせず話もしないことで争いを避けるようにした。母親の暴力に一緒に対抗していた姉と弟のことをなるべく気遣うようにした。学校へ行っても授業には出なかったが、騒動を起こさず暴力も振るわない生徒たちへ近づいて彼らの話を聞こうとした。その中で彼らも感情と思考を持った自分と同じ生き物であることを知り、私の知らない数式や言葉を知る彼らに憧れを抱くようになった。そうしてどんどん孤独ではなくなっていった。
冒頭の不祥事も一因となって私は県外の高校へ進学することになった。その後も学力はずっと低かったし、高校卒業後に進んだ大学は学部2年の段階で中退、サラリーマンは10年で退職、パートは髪を切るのが嫌で辞めたり雇い主に嫌われて馘首されたりする、とまともではない人生を歩んで現在に至っているものの、触法行為には及ばずに済んでいる。自由を何よりも尊ぶ一方、あくまで最低限の統制が無ければ自由も無く、限られた者のみが自由であることは平等なき自由であり低価値または無価値であるとも信じられる。自分を健全な人間だとは決して思わないがそれでも以前よりずっとましだと思う。人を傷つけることはしたくないし誰の不幸も願わない。臆病の誹りを受けるとしても柔弱謙下が信条である。
私の信条はあくまで私の信条であり、他の事項に援用敷衍できるものではない。私は今も昔と変わらない小物である。しかし昔と違って今は生きていて楽しい。学校へ来ることを早々に止めた彼をはじめとする多くの諸々の存在がなければ、私はいま存在していないだろう。
私の母はその時泣いて「産まなきゃ良かった」と言った。母を嫌っていた私はそれが痛快で、「ざまあみろ」と言って笑っていた。自分の子どもには平気で暴力を振るっていた母親が、自身が世間から非難されることを嘆いているのがとても嬉しかったのである。
その件以降私は行ったり行かなかったりの状態だった学校から更に遠ざかり、毎日山道や河原を散歩するようになった。その頃から何となく内心に変化のようなものを感じていたが、それが何なのかはまだ分からなかった。
学校へ殆ど行かなくなってから何週間か経ったある日、家の近所で小学校の頃の同級生にばったりと出会った。彼は私と同じ中学校へ入学してから数日でその中学校へ来なくなったのでおよそ一年半ぶりの再会であった。私は彼を散歩に誘い、よく行っていた河原まで一緒に歩いて並んで座り込んだ。
彼は中学校の騒がしさと無秩序が嫌で行かないのだ、家ではテレビゲーム等をして過ごしている、と話してくれた。そして私に、「暴力はよくないと思う」と言った。
この時に私は大きな衝撃を受けた。私はおそらく内奥では暴力や騒動を嫌い、静かで平和な環境を好んでいたのだが、それを私に向けた言葉として他者から伝えてもらえたことが無かったために自覚できなかったのだと思う。静かで平和なのが好きだから山道や河原に一人でいると心が落ち着いたのだろう。傷つけ合い奪い合うことはありふれているけれども、それは物事のあるべき姿ではない。目指すべきは平和である。そのことを自分一人では信じられなかったところへ、大して私と親しかったこともなくどちらかといえば私を嫌っていたはずの彼が教えてくれたと思った。
「そうだよな」と私は泣きながら言った。
「うん」と彼は短く平坦に答えた。
私はその日帰宅した時から、母親を故意に挑発して怒らせることをしなくなった。顔を合わせず話もしないことで争いを避けるようにした。母親の暴力に一緒に対抗していた姉と弟のことをなるべく気遣うようにした。学校へ行っても授業には出なかったが、騒動を起こさず暴力も振るわない生徒たちへ近づいて彼らの話を聞こうとした。その中で彼らも感情と思考を持った自分と同じ生き物であることを知り、私の知らない数式や言葉を知る彼らに憧れを抱くようになった。そうしてどんどん孤独ではなくなっていった。
冒頭の不祥事も一因となって私は県外の高校へ進学することになった。その後も学力はずっと低かったし、高校卒業後に進んだ大学は学部2年の段階で中退、サラリーマンは10年で退職、パートは髪を切るのが嫌で辞めたり雇い主に嫌われて馘首されたりする、とまともではない人生を歩んで現在に至っているものの、触法行為には及ばずに済んでいる。自由を何よりも尊ぶ一方、あくまで最低限の統制が無ければ自由も無く、限られた者のみが自由であることは平等なき自由であり低価値または無価値であるとも信じられる。自分を健全な人間だとは決して思わないがそれでも以前よりずっとましだと思う。人を傷つけることはしたくないし誰の不幸も願わない。臆病の誹りを受けるとしても柔弱謙下が信条である。
私の信条はあくまで私の信条であり、他の事項に援用敷衍できるものではない。私は今も昔と変わらない小物である。しかし昔と違って今は生きていて楽しい。学校へ来ることを早々に止めた彼をはじめとする多くの諸々の存在がなければ、私はいま存在していないだろう。
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