ひろひろ48 さんの日記
2020
8月
20
(木)
08:23
本文
アメリカにおける女性の闘いは二重三重の差別との闘いでもあった。新聞に連載の「米 女性参政権100年」の2回目。先人の闘いから学んでいけるのか?
人種、そして男社会の壁を独力突破したミンク 差別体験を機に政治の道へ 2020年8月19日
◇七転び八起き パツィー・ミンクの闘い(2)
非白人女性として初めて米連邦下院議員となった日系3世のパツィー・タケモト・ミンクは子どものころ医者になるのが夢だった。娘のグウェンドリン(68)は「母(ミンク)と祖母の病気を献身的に治療してくれた、かかりつけ医の影響が大きかった」と語る。
1947年、将来の医学部(メディカル・スクール)進学を視野にハワイ大から中西部のネブラスカ大に転校。ミンクはそこで米本土の人種差別と初めて遭遇する。大学は当時、学生寮の利用を白人に限る人種隔離政策をとっていた。怒ったミンクは同年4月、学生新聞の編集長あてに抗議の手紙を投稿した。
「偏見と差別がどんなものか、故郷で知り得なかったことが分かったのは幸運だった」。皮肉まじりの痛烈な批判は大学を動かし、隔離政策を撤廃させた。
体を壊したためハワイに戻ったミンクは、今度は性差別に直面した。十数校の医学部に願書を送り続けたが、「女性だから」と全て不合格に。進路を変え、中西部イリノイ州のシカゴ大法科大学院に進んだものの、そこでも男社会の壁にぶつかる。「私がそもそも入学できたのは、(入試担当の)誰かがハワイを外国と勘違いし、留学生枠をあてがったから」。ミンクは後年、米政府広報番組でこう振り返った。
法科大学院を修了しても「シカゴでは女性、日系という理由で、どの法律事務所も雇ってくれなかった。仕方なくハワイに戻ったが『子どもがもっと増えるでしょう』『夫を支えなさい』などと事情は変わらなかった」(グウェンドリン)。
あからさまな差別の体験は、ミンクが政治に身を投じるきっかけとなった。ハワイで弁護士を開業するかたわら、進歩的な民主党の青年組織で活動を始めた。
カリフォルニア大アーバイン校教授のジュディ・ウーによると、ハワイの民主党にとって、第2次世界大戦で勇名をはせた日系2世の退役軍人グループは民主党の勢力拡大に不可欠だった。一方、ミンクに対しては「裏方での活動は重宝したものの、表舞台での活躍は求めなかった」と語る。
ミンクは59年、州昇格後初の連邦下院議員選挙に挑む。党の後ろ盾を期待したが、党幹部は当初上院選に出馬予定だった大戦の英雄ダニエル・イノウエを国政に確実に送り出すため下院にくら替えさせた。ミンクは怒り、「自らの政治的権利を訴えて」(ウー)予備選に出馬しイノウエに惨敗。64年の下院選に当選した際も草の根選挙を展開し、党とは距離を置いた。
ハワイ大元教授のダン・ボイランは「根っからのリベラル、積極果敢に平等を訴える点で、ミンクは当時の日系女性の中でも型破りだった」と指摘。アマースト大教授のフランクリン・オウドウも「ミンクにとって自由と平等、正義は日系人社会のためといった政治的な動機に基づくというより信条そのものだった」と語る。冷戦のさなか、ミンクの信条は反核・反戦の姿勢にも如実に表れた。=敬称略(ワシントン・岩田仲弘)
人種、そして男社会の壁を独力突破したミンク 差別体験を機に政治の道へ 2020年8月19日
◇七転び八起き パツィー・ミンクの闘い(2)
非白人女性として初めて米連邦下院議員となった日系3世のパツィー・タケモト・ミンクは子どものころ医者になるのが夢だった。娘のグウェンドリン(68)は「母(ミンク)と祖母の病気を献身的に治療してくれた、かかりつけ医の影響が大きかった」と語る。
1947年、将来の医学部(メディカル・スクール)進学を視野にハワイ大から中西部のネブラスカ大に転校。ミンクはそこで米本土の人種差別と初めて遭遇する。大学は当時、学生寮の利用を白人に限る人種隔離政策をとっていた。怒ったミンクは同年4月、学生新聞の編集長あてに抗議の手紙を投稿した。
「偏見と差別がどんなものか、故郷で知り得なかったことが分かったのは幸運だった」。皮肉まじりの痛烈な批判は大学を動かし、隔離政策を撤廃させた。
体を壊したためハワイに戻ったミンクは、今度は性差別に直面した。十数校の医学部に願書を送り続けたが、「女性だから」と全て不合格に。進路を変え、中西部イリノイ州のシカゴ大法科大学院に進んだものの、そこでも男社会の壁にぶつかる。「私がそもそも入学できたのは、(入試担当の)誰かがハワイを外国と勘違いし、留学生枠をあてがったから」。ミンクは後年、米政府広報番組でこう振り返った。
法科大学院を修了しても「シカゴでは女性、日系という理由で、どの法律事務所も雇ってくれなかった。仕方なくハワイに戻ったが『子どもがもっと増えるでしょう』『夫を支えなさい』などと事情は変わらなかった」(グウェンドリン)。
あからさまな差別の体験は、ミンクが政治に身を投じるきっかけとなった。ハワイで弁護士を開業するかたわら、進歩的な民主党の青年組織で活動を始めた。
カリフォルニア大アーバイン校教授のジュディ・ウーによると、ハワイの民主党にとって、第2次世界大戦で勇名をはせた日系2世の退役軍人グループは民主党の勢力拡大に不可欠だった。一方、ミンクに対しては「裏方での活動は重宝したものの、表舞台での活躍は求めなかった」と語る。
ミンクは59年、州昇格後初の連邦下院議員選挙に挑む。党の後ろ盾を期待したが、党幹部は当初上院選に出馬予定だった大戦の英雄ダニエル・イノウエを国政に確実に送り出すため下院にくら替えさせた。ミンクは怒り、「自らの政治的権利を訴えて」(ウー)予備選に出馬しイノウエに惨敗。64年の下院選に当選した際も草の根選挙を展開し、党とは距離を置いた。
ハワイ大元教授のダン・ボイランは「根っからのリベラル、積極果敢に平等を訴える点で、ミンクは当時の日系女性の中でも型破りだった」と指摘。アマースト大教授のフランクリン・オウドウも「ミンクにとって自由と平等、正義は日系人社会のためといった政治的な動機に基づくというより信条そのものだった」と語る。冷戦のさなか、ミンクの信条は反核・反戦の姿勢にも如実に表れた。=敬称略(ワシントン・岩田仲弘)
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