tinc さんの日記
2020
6月
7
(日)
18:40
本文
知人に酒好きの男がいる。彼は会う度に私の愛飲する安いウィスキーをして「よくそんなもん飲めるな」と言う。それを受けた私が彼の履いている安価な革靴を指して「そんなもん履くくらいなら便所サンダルで歩いたらいい」と言い返すところまでが定例になっている。
実際には彼は他人の飲むものを馬鹿にしているわけではない。私も自分の履くブーツが便所サンダルよりも優れていると思っていないし、彼の靴がそれらに劣るものだとも考えていない。それぞれの嗜好や拘りを軽口にできるくらいには関係が良好であるというだけのことであると私は受け止めている。
私にはお酒のことは分からない。彼が半ば恍惚としたような表情で語るところによれば「酒は良いものを飲んだときには良さが分からない。その後で普段飲んでいる酒を飲んだとき、味が軽薄で匂いも悪いことが分かって、はじめて良いものを良いと感じる」ということなのだそうだ。そういうものか、と私は思うだけで、例えばバランタインの17年を飲んだ後でも12年を不味いと感じもしなければジョニー・ウォーカーのブルーラベルとブラックラベルを峻別する自信も無い。
私が履いているホワイツもレッドウィングもチペワも彼には全部同じに見えるらしいので、そういうものなのだろう。
事物の優劣を論じるには前提としてある程度の信頼関係が必要であるように私は思っている。それは「私が良いと思うものをあなたが良いと思わない場合であっても、あなたの価値観を尊重する」ということが相互に約束されているということだと思う。また更に前の段階において「私は何者かから貶められたとしても、そのことによって変わらない価値を持っている」とそれぞれが信じられていなければならないと思う。つまりこれは自己への信頼である。
甚だあやふやで相対的なものではあるが、他人と実のある話をするということにはそのようなあやふやで相対的でそして強固な基盤が必要であると思う。
私は他者を尊重することを非常に重視している一方で、疲弊している時や心配事で頭が埋まっている時等にはそのことが大きな負担に感じられ、形式上尊重しているようなことを言いながら内面では相手を遠ざけたいと感じていることがままある。私のその思惑を知ってか知らずか相手が遠ざかってくれた場合でも、楽になったと感じられるのは一時で、あんなふうに他人に接することはしたくなかったという悔恨がすぐに心を訪れる。
おそらくこの悔恨は自分の実際の能力の低さを受け入れられていないことに由来する感情であり、「本当はこうもできた」「もっとああすることもできた」という後付けの架空の選択を根拠に自分を責める働きの一つの表れでもある。
完璧な理想像の立場から他人や自分を裁き罰したところで不毛である。また完璧な理想像そのものが多くの場合は薄弱な根拠しか持たないため、さらに不毛である。疲弊したり心配していたりするとそのことすらも分からなくなってしまう。
理想は重要であるが、それが支配的であったり暴力的であったりすることは避けたいところである。そのために今の私にできることはきわめて限られており、例えばなるべく裁いたり責めたりせず、好きなものを好きでいることくらいである。今しばらくはそれらを愚直にこなしてゆくしか無いであろう。
実際には彼は他人の飲むものを馬鹿にしているわけではない。私も自分の履くブーツが便所サンダルよりも優れていると思っていないし、彼の靴がそれらに劣るものだとも考えていない。それぞれの嗜好や拘りを軽口にできるくらいには関係が良好であるというだけのことであると私は受け止めている。
私にはお酒のことは分からない。彼が半ば恍惚としたような表情で語るところによれば「酒は良いものを飲んだときには良さが分からない。その後で普段飲んでいる酒を飲んだとき、味が軽薄で匂いも悪いことが分かって、はじめて良いものを良いと感じる」ということなのだそうだ。そういうものか、と私は思うだけで、例えばバランタインの17年を飲んだ後でも12年を不味いと感じもしなければジョニー・ウォーカーのブルーラベルとブラックラベルを峻別する自信も無い。
私が履いているホワイツもレッドウィングもチペワも彼には全部同じに見えるらしいので、そういうものなのだろう。
事物の優劣を論じるには前提としてある程度の信頼関係が必要であるように私は思っている。それは「私が良いと思うものをあなたが良いと思わない場合であっても、あなたの価値観を尊重する」ということが相互に約束されているということだと思う。また更に前の段階において「私は何者かから貶められたとしても、そのことによって変わらない価値を持っている」とそれぞれが信じられていなければならないと思う。つまりこれは自己への信頼である。
甚だあやふやで相対的なものではあるが、他人と実のある話をするということにはそのようなあやふやで相対的でそして強固な基盤が必要であると思う。
私は他者を尊重することを非常に重視している一方で、疲弊している時や心配事で頭が埋まっている時等にはそのことが大きな負担に感じられ、形式上尊重しているようなことを言いながら内面では相手を遠ざけたいと感じていることがままある。私のその思惑を知ってか知らずか相手が遠ざかってくれた場合でも、楽になったと感じられるのは一時で、あんなふうに他人に接することはしたくなかったという悔恨がすぐに心を訪れる。
おそらくこの悔恨は自分の実際の能力の低さを受け入れられていないことに由来する感情であり、「本当はこうもできた」「もっとああすることもできた」という後付けの架空の選択を根拠に自分を責める働きの一つの表れでもある。
完璧な理想像の立場から他人や自分を裁き罰したところで不毛である。また完璧な理想像そのものが多くの場合は薄弱な根拠しか持たないため、さらに不毛である。疲弊したり心配していたりするとそのことすらも分からなくなってしまう。
理想は重要であるが、それが支配的であったり暴力的であったりすることは避けたいところである。そのために今の私にできることはきわめて限られており、例えばなるべく裁いたり責めたりせず、好きなものを好きでいることくらいである。今しばらくはそれらを愚直にこなしてゆくしか無いであろう。
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