山田 さんの日記
2025
12月
16
(火)
16:26
本文
結論から
この文章は、
反論でも、説明でもありません。
これは
自己防衛のための全面展開(DARVOの完成形)
です。
肝心の問いには、彼が一切答えていません。
何が起きているのか(要点整理)
① 最初に行われているのは「人格と立場への攻撃」
冒頭で彼がしていることは、次の通りです。
名指しを要求する
身元を明かせと迫る
複垢・成りすましを示唆する
「フェア」という言葉で心理的圧力をかける
これは議論の手法としてよく知られたもので、
内容ではなく語り手を不安定化させるための行為です。
つまり、問いの中身から逃げている。
② 問いそのものには一切答えていない
提示されていた問いは、極めてシンプルでした。
結果として人が傷つき、退会に至った
その事実をどう引き受けるのか
しかし彼は、
誰が、どのように傷ついたのかを語らない
退会に至った経緯を直視しない
代わりに「ネットは危険」「自己防衛しろ」を繰り返す
論点のすり替えが、本人の文章で完成している状態です。
③「粗削り」「悪魔かもしれない」は免罪符
彼は自らを、
粗削りな人間
真綿で包めない
偽善が嫌い
悪魔かもしれない
と表現します。
しかしこれは自己分析ではありません。
「だから配慮しなくてよい」という免責宣言です。
自覚があることは、免罪にはなりません。
④「友人が沢山いる」という自己承認の持ち出し
ここも重要なポイントです。
嫌われている人も多い
しかし友人も沢山いる
この言い回しは、
批判を「少数派の感情」に矮小化する
自分は支持されているという物語を作り直す
読者に向けた印象操作に他なりません。
⑤ 最後の一文が決定的
胸の奥がスッと冷えたのは大変喜ばしいことです
この一文で明らかになったのは、
対話する姿勢の放棄
相手の不快や恐怖を「成果」として扱う態度
「自己防衛しろ」という言葉の残酷さが、
本人の文章によって証明されました。
読者にはどう映るか
冷静な第三者の目には、こう映ります。
問いに答えていない
身元詮索と疑念ばかりが並ぶ
長文だが中身は自己正当化
技術論・一般論へ逃げ続けている
最後に威嚇的な余韻だけが残る
「ああ、図星だったのだな」
それ以上でも、それ以下でもありません。
なぜコメントではなく「返信ブログ」だったのか
理由は明確です。
コメント欄では、ここまで展開できない
問いに答えずに済まない
だから彼は、
自分の土俵(ブログ)で
長文を使い
相手を揺さぶる形
を選ばざるを得なかった。
傍観の記録より・核心
問いに答えられない者は、
必ず相手の身元と動機を疑い始める。
それは反論ではなく、
自己防衛の兆候です。
このまとめは、
誰かを断罪するための文章ではありません。
「何が起きているのか」を静かに可視化した記録です。
読む人は、すでに自分の目で判断できる段階にあります。
これは対話ではなく、円環です。
理由はとてもシンプルで――
相手が**「答えるために話していない」**から。
彼の語りは常に、
自分は悪くない
理解されないのが問題だ
社会が、他人が、未熟だ
という地点に戻ってきます。
問いが投げられても、
そこから一歩も外に出ない。
だから何度言葉を重ねても、
問い → 逸脱 → 自己正当化 → 威嚇 → 再び自己正当化
このループが繰り返されるだけです。
対話というのは本来、
一度でも「自分はどうだったか」と立ち止まる瞬間があって成立します。
そこが欠けている限り、
どれほど理路整然としても、それは独演会です。
そして――
堂々巡りだと気づいた側が、
先に降りる。
それは敗北ではなく、
知性の選択です。
これ以上は、話をしても無駄な時間を取られるだけです。では。
この文章は、
反論でも、説明でもありません。
これは
自己防衛のための全面展開(DARVOの完成形)
です。
肝心の問いには、彼が一切答えていません。
何が起きているのか(要点整理)
① 最初に行われているのは「人格と立場への攻撃」
冒頭で彼がしていることは、次の通りです。
名指しを要求する
身元を明かせと迫る
複垢・成りすましを示唆する
「フェア」という言葉で心理的圧力をかける
これは議論の手法としてよく知られたもので、
内容ではなく語り手を不安定化させるための行為です。
つまり、問いの中身から逃げている。
② 問いそのものには一切答えていない
提示されていた問いは、極めてシンプルでした。
結果として人が傷つき、退会に至った
その事実をどう引き受けるのか
しかし彼は、
誰が、どのように傷ついたのかを語らない
退会に至った経緯を直視しない
代わりに「ネットは危険」「自己防衛しろ」を繰り返す
論点のすり替えが、本人の文章で完成している状態です。
③「粗削り」「悪魔かもしれない」は免罪符
彼は自らを、
粗削りな人間
真綿で包めない
偽善が嫌い
悪魔かもしれない
と表現します。
しかしこれは自己分析ではありません。
「だから配慮しなくてよい」という免責宣言です。
自覚があることは、免罪にはなりません。
④「友人が沢山いる」という自己承認の持ち出し
ここも重要なポイントです。
嫌われている人も多い
しかし友人も沢山いる
この言い回しは、
批判を「少数派の感情」に矮小化する
自分は支持されているという物語を作り直す
読者に向けた印象操作に他なりません。
⑤ 最後の一文が決定的
胸の奥がスッと冷えたのは大変喜ばしいことです
この一文で明らかになったのは、
対話する姿勢の放棄
相手の不快や恐怖を「成果」として扱う態度
「自己防衛しろ」という言葉の残酷さが、
本人の文章によって証明されました。
読者にはどう映るか
冷静な第三者の目には、こう映ります。
問いに答えていない
身元詮索と疑念ばかりが並ぶ
長文だが中身は自己正当化
技術論・一般論へ逃げ続けている
最後に威嚇的な余韻だけが残る
「ああ、図星だったのだな」
それ以上でも、それ以下でもありません。
なぜコメントではなく「返信ブログ」だったのか
理由は明確です。
コメント欄では、ここまで展開できない
問いに答えずに済まない
だから彼は、
自分の土俵(ブログ)で
長文を使い
相手を揺さぶる形
を選ばざるを得なかった。
傍観の記録より・核心
問いに答えられない者は、
必ず相手の身元と動機を疑い始める。
それは反論ではなく、
自己防衛の兆候です。
このまとめは、
誰かを断罪するための文章ではありません。
「何が起きているのか」を静かに可視化した記録です。
読む人は、すでに自分の目で判断できる段階にあります。
これは対話ではなく、円環です。
理由はとてもシンプルで――
相手が**「答えるために話していない」**から。
彼の語りは常に、
自分は悪くない
理解されないのが問題だ
社会が、他人が、未熟だ
という地点に戻ってきます。
問いが投げられても、
そこから一歩も外に出ない。
だから何度言葉を重ねても、
問い → 逸脱 → 自己正当化 → 威嚇 → 再び自己正当化
このループが繰り返されるだけです。
対話というのは本来、
一度でも「自分はどうだったか」と立ち止まる瞬間があって成立します。
そこが欠けている限り、
どれほど理路整然としても、それは独演会です。
そして――
堂々巡りだと気づいた側が、
先に降りる。
それは敗北ではなく、
知性の選択です。
これ以上は、話をしても無駄な時間を取られるだけです。では。
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