ひろひろ48 さんの日記
2023
9月
10
(日)
21:18
本文
この間、東京新聞は、100年の区切りで、いろいろ特集を組んでいる。ウクライナ戦争、温暖化・地球沸騰の時代、地震の活動期など大きな歴史の転換点なのかもしれない。中国の政策も要因だろうが、沖縄のエリアでは自衛隊の新しい施設、辺野古基地の新設など戦争への準備が進んでいるような雰囲気も。前の第二次世界大戦で沖縄は4人に1人が亡くなった。「さとうきび畑」はその悲しみから作られた歌。皆さんがよくしっているのは、森山良子さんの歌。ところが、知らなかったのですが、マヒナスターズとヒットさせた「愛しちゃったのよ」を歌った田代美代子さん(79)は、現役で歌い続けています。で、なんと「さとうきび畑」を最初に歌ったのが田代美代子さんという記事が先週木曜9月7日の東京新聞にあり、紹介します。
「愛しちゃったのよ」「さとうきび畑」 田代美代子さん 反戦、平和、愛:歌に祈り
「♪愛しちゃったのよ ララ ランラン」。誰もが口ずさめる昭和歌謡だ。マヒナスターズとともにヒットさせた田代美代子さん(79)はもう一つ、誰もが知る曲を世に送り出している。「さとうきび畑」。シャンソン歌手としてキャリアをスタートさせながら、多彩なジャンルで聴く人の琴線に触れる曲を今も歌い続ける。 (稲熊均)
◆沖縄の悲しみ
そのフレーズの手前でピアノ伴奏がやむ。「知らないはずの父の手に抱かれた夢を見た…お父さんて呼んでみたい
お父さんどこにいるの」。心から絞り出すような歌声に、客席では目頭を押さえる人もいる。
終戦の日を前にした先月12日、東京・原宿で開かれた田代さんらのライブ。ステージでは「さとうきび畑」が披露されていた。沖縄戦で戦死した父親を思い少女がさとうきび畑で悲しみを訴える。通り抜ける風の音「ざわわ」が繰り返される、静かな反戦の歌だ。
田代さんは「この少女は私とほとんど同じ歳(とし)なんです。当時、多くの子たちが味わった悲しみがこの歌に凝縮されている気がするんです」と思いを吐露した。
今回のライブは平和への祈りを込めたシャンソンの名曲を特集したイベントとして企画された。開催を前に、主催者が「これはあなたの曲ですね。ぜひ歌ってほしい」と田代さんに提案し、加えられたのが「さとうきび畑」だった。
この曲は、作曲家の寺島尚彦さんが本土復帰前の沖縄を訪問した際に着想し、作詞も手がけ作られた。寺島さんは、日本シャンソンの草分け石井好子さんの伴奏者としても知られる。その門下生だった田代さんにより、「さとうきび畑」は1967年5月、四国のコンサート会場で初披露された。寺島さんは後に「初演の日」という文章で「この歌は田代美代子さんの唇からうまれました」とつづっている。レコードとしてはその2年後、森山良子さんが最初に収録し広く聴かれるようになった。
◆インド訪問転機
田代さんは自身を「ジャンルなき歌手」と位置づける。大学在学中に石井さんに師事し、シャンソンを学ぶが、英語が堪能だったことから「ジャズも歌いなさい」と指導され、ライブで歌うようになった。ジャズナンバーでレコーディングしかけたところを、マヒナスターズのリーダー和田弘さんから声をかけられ、「愛して愛して愛しちゃったのよ」でレコードデビュー。この曲がミリオンセラーとなり、以来、幅広い分野で芸能活動を続けてきた。
転機が訪れるのは、96年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の活動に参加してからだ。「インドを視察して、学校に通えず、飢えにも苦しむ子どもたちの実情を知り、自分に何ができるか考えさせられた」
その答えとして立ち上げたのが世界の子どもたちのための義援金を募る「ハートフル・チャリティー・コンサート」だ。ユネスコ日本協会連盟の理事となった田代さんが多くのアーティストを集め97年から毎年、日本各地で開催してきた。このステージで自ら歌い続けてきた曲の一つが「さとうきび畑」だ。2004年には沖縄県の5都市で開いている。
「曲が生まれた地に寺島先生も来ていただけるはずだったのですが、直前に亡くなられて…。先生の願いは恒久平和でした。世界では今も紛争、戦争がやまない。歌の中の少女と世界の子どもたちは同じ祈りでつながっている気もしますし、その祈りをさまざまな歌を通して、広く伝えていければと思いました」
田代さんは既にユネスコ理事は退任しているが、チャリティーや慰問も含め、さまざまなコンサートに出演し歌い続けている。「ジャンルなき歌手」らしい、ちゃめっ気たっぷりの持ち歌もある。原宿でのライブでも「(作詞家の)なかにし礼さんがフランス語の訳詞を書いてくれたんです」と明かし、披露した。シャンソン風の「愛しちゃったのよ」だ。「♪ジュネムク トワ トワ ララランラン」。客席がどっと沸く。
「歌も人も、『愛』が何より大事ですしね」
<引用以上>
さとうきび畑、ウクライナのひまわり畑につながっているのだろうか??権力者たちの戦争で、いつもいちばん悲しい思いをさせられるのは普通の国民。
藤田まこと、多くの人は「必殺仕事人」を思い浮かべるのかな、2010年に大動脈瘤で76歳で亡くなりました。関西出身のぼくとしては、「てなもんや三度笠」でよく見てた。俳優だけでなく歌手でも活躍されたようだ。彼の兄が沖縄戦で17歳で亡くなり、兄からの最後のはがきを肌身離さずもっていたそうだ。その藤田まことさんがイベントの舞台で歌った「さとうきび畑」は、ご自身の体験もあり、こころに響く歌です。ほかにも歌手としてたくさん歌われているのがYoutubeにあります。
「愛しちゃったのよ」「さとうきび畑」 田代美代子さん 反戦、平和、愛:歌に祈り
「♪愛しちゃったのよ ララ ランラン」。誰もが口ずさめる昭和歌謡だ。マヒナスターズとともにヒットさせた田代美代子さん(79)はもう一つ、誰もが知る曲を世に送り出している。「さとうきび畑」。シャンソン歌手としてキャリアをスタートさせながら、多彩なジャンルで聴く人の琴線に触れる曲を今も歌い続ける。 (稲熊均)
◆沖縄の悲しみ
そのフレーズの手前でピアノ伴奏がやむ。「知らないはずの父の手に抱かれた夢を見た…お父さんて呼んでみたい
お父さんどこにいるの」。心から絞り出すような歌声に、客席では目頭を押さえる人もいる。
終戦の日を前にした先月12日、東京・原宿で開かれた田代さんらのライブ。ステージでは「さとうきび畑」が披露されていた。沖縄戦で戦死した父親を思い少女がさとうきび畑で悲しみを訴える。通り抜ける風の音「ざわわ」が繰り返される、静かな反戦の歌だ。
田代さんは「この少女は私とほとんど同じ歳(とし)なんです。当時、多くの子たちが味わった悲しみがこの歌に凝縮されている気がするんです」と思いを吐露した。
今回のライブは平和への祈りを込めたシャンソンの名曲を特集したイベントとして企画された。開催を前に、主催者が「これはあなたの曲ですね。ぜひ歌ってほしい」と田代さんに提案し、加えられたのが「さとうきび畑」だった。
この曲は、作曲家の寺島尚彦さんが本土復帰前の沖縄を訪問した際に着想し、作詞も手がけ作られた。寺島さんは、日本シャンソンの草分け石井好子さんの伴奏者としても知られる。その門下生だった田代さんにより、「さとうきび畑」は1967年5月、四国のコンサート会場で初披露された。寺島さんは後に「初演の日」という文章で「この歌は田代美代子さんの唇からうまれました」とつづっている。レコードとしてはその2年後、森山良子さんが最初に収録し広く聴かれるようになった。
◆インド訪問転機
田代さんは自身を「ジャンルなき歌手」と位置づける。大学在学中に石井さんに師事し、シャンソンを学ぶが、英語が堪能だったことから「ジャズも歌いなさい」と指導され、ライブで歌うようになった。ジャズナンバーでレコーディングしかけたところを、マヒナスターズのリーダー和田弘さんから声をかけられ、「愛して愛して愛しちゃったのよ」でレコードデビュー。この曲がミリオンセラーとなり、以来、幅広い分野で芸能活動を続けてきた。
転機が訪れるのは、96年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の活動に参加してからだ。「インドを視察して、学校に通えず、飢えにも苦しむ子どもたちの実情を知り、自分に何ができるか考えさせられた」
その答えとして立ち上げたのが世界の子どもたちのための義援金を募る「ハートフル・チャリティー・コンサート」だ。ユネスコ日本協会連盟の理事となった田代さんが多くのアーティストを集め97年から毎年、日本各地で開催してきた。このステージで自ら歌い続けてきた曲の一つが「さとうきび畑」だ。2004年には沖縄県の5都市で開いている。
「曲が生まれた地に寺島先生も来ていただけるはずだったのですが、直前に亡くなられて…。先生の願いは恒久平和でした。世界では今も紛争、戦争がやまない。歌の中の少女と世界の子どもたちは同じ祈りでつながっている気もしますし、その祈りをさまざまな歌を通して、広く伝えていければと思いました」
田代さんは既にユネスコ理事は退任しているが、チャリティーや慰問も含め、さまざまなコンサートに出演し歌い続けている。「ジャンルなき歌手」らしい、ちゃめっ気たっぷりの持ち歌もある。原宿でのライブでも「(作詞家の)なかにし礼さんがフランス語の訳詞を書いてくれたんです」と明かし、披露した。シャンソン風の「愛しちゃったのよ」だ。「♪ジュネムク トワ トワ ララランラン」。客席がどっと沸く。
「歌も人も、『愛』が何より大事ですしね」
<引用以上>
さとうきび畑、ウクライナのひまわり畑につながっているのだろうか??権力者たちの戦争で、いつもいちばん悲しい思いをさせられるのは普通の国民。
藤田まこと、多くの人は「必殺仕事人」を思い浮かべるのかな、2010年に大動脈瘤で76歳で亡くなりました。関西出身のぼくとしては、「てなもんや三度笠」でよく見てた。俳優だけでなく歌手でも活躍されたようだ。彼の兄が沖縄戦で17歳で亡くなり、兄からの最後のはがきを肌身離さずもっていたそうだ。その藤田まことさんがイベントの舞台で歌った「さとうきび畑」は、ご自身の体験もあり、こころに響く歌です。ほかにも歌手としてたくさん歌われているのがYoutubeにあります。
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