ひろひろ48 さんの日記
2023
5月
11
(木)
19:31
本文
写真でしか覚えてないのだけど、幼稚園のころかな、そのころは(戦後で昭和30年ころかな?)保育園などなくて、公立の小学校に付属の公立の幼稚園があって、通って、市でのいまでいうイベント、母子での歯の健康親子の表彰の写真。笑ってたな。
小学校2年のときに高熱の病気、連日40度超え、ちょうど母親が結核で入院。その結核がうつって、脳に入ったらしく脳結核、脊髄に注射して髄液をとって検査。脳結核。即入院。近くにある総合病院っていうと市民病院。いまもうっすら覚えている、まるで昔の学校の教室みたいな木造の病棟にベッドが並べられてて。夜になって眠ると、オオカミかなんか得体のしれない怖いものが追いかけてくる怖い夢ばかり。。ときどき空中を泳いでいる夢も。あとから聞いた話で、このままだと命もあぶあない、治っても脳に障害がのころかもしれないと、覚悟をするよういわれたらしい。めちゃ運がよかったのか、そのころ結核の特効薬ペニシリンがアメリカで開発され、日本でもつかえるようになったけど、保険はきかないことで、家が一軒たつほどの費用。それでも、完治するかの保障はなく。両親は、自分の家をもつために貯めていた貯金をはたいて、ぼくにつかってくれた。ほぼ一学期、闘病、治ったかどうか調べるための脊髄に太い注射針をさして髄液を取るときの痛さは、かなりだった。ペニシリンのおかげ(両親のおかげ)で、夏休み前には治って、一学期の終わりごろに学校に復帰。
小学校6年のとき、運動神経もないのに、男子の多くが、そのころ流行ってた、たしかコウモリという鉄棒の遊び、高い鉄棒に両脚を掛けて、頭を下にしてぶら下がり、そのかっこうがコウモリみたいだから、その名前に、からだを前後にゆらして、一回転して両脚で着地。やってみたら、みごと?失敗。ひざ下を地面に強打。痛かった、、歩けなくなった。。そのまま病院にいってレントゲン、骨折。
家から小学校まで、かなり急な坂をのぼる。おふくろは、近所からかりてきたのか、リヤカーにぼくをのせて、歩けるようになるまで、小学校まで送ってくれた。たくさんの同級生も、リヤカーをひっぱってくれた。
そのおふくろが亡くなって、来年七回忌。はやいな。。
明々後日の日曜は、母の日。今の時代、虐待もあったりだけど、いろんな状況でなんとも言えない、いちいばん弱いところにしわ寄せがかかるのだろう。
昔の母親は、生活を背負って懸命に生きて、子どもには本音ももらさず。。かな。すこし前の新聞の投稿「あけくれ」から
母の脚 by 大久保 則子(51)
母の頑張りは脚の不自由さからきていた。
今は亡き母は、それでも正社員枠で定年退職し女手一つで私を育ててくれた。
母のおかげで自分の家が貧乏だなんてみじんも思わなかった。雨風が強かろうが母は会社に出かけた。それでも雪の日、二年続けて転び入院をした。
私が小6、中一の冬だった。三カ月近く一人暮らしをした。ありがたいことに会社は母を見捨てず、私も寂しさを感じなかったのは友人たちのおかげだ。その中の一人とは今も会う。
一度だけ、私は母の脚のことを「どうして?」と聞いた。母はカチンときたのと虫の居所が悪いのとで、いつものよたよたでなく、さーっとエスカレータを上まで歩いて「これでいい」と言った。私は二度と脚のことにふれなかった。晩年は脚が痛いと言っていた母。私は八歳で父を亡くし、二十歳までは母におんぶにだっこだった。母の脚の痛さは15年勤続のけっぱりの証拠だったのだろう。今になって痛感する。
<引用以上>
昔は、学校で赤いカーネーションを母の日のために受け取り、母親のいない生徒は、白いカーネーションを。亡くなってもおふくろはおふくろ、感謝の日にしたい。
小学校2年のときに高熱の病気、連日40度超え、ちょうど母親が結核で入院。その結核がうつって、脳に入ったらしく脳結核、脊髄に注射して髄液をとって検査。脳結核。即入院。近くにある総合病院っていうと市民病院。いまもうっすら覚えている、まるで昔の学校の教室みたいな木造の病棟にベッドが並べられてて。夜になって眠ると、オオカミかなんか得体のしれない怖いものが追いかけてくる怖い夢ばかり。。ときどき空中を泳いでいる夢も。あとから聞いた話で、このままだと命もあぶあない、治っても脳に障害がのころかもしれないと、覚悟をするよういわれたらしい。めちゃ運がよかったのか、そのころ結核の特効薬ペニシリンがアメリカで開発され、日本でもつかえるようになったけど、保険はきかないことで、家が一軒たつほどの費用。それでも、完治するかの保障はなく。両親は、自分の家をもつために貯めていた貯金をはたいて、ぼくにつかってくれた。ほぼ一学期、闘病、治ったかどうか調べるための脊髄に太い注射針をさして髄液を取るときの痛さは、かなりだった。ペニシリンのおかげ(両親のおかげ)で、夏休み前には治って、一学期の終わりごろに学校に復帰。
小学校6年のとき、運動神経もないのに、男子の多くが、そのころ流行ってた、たしかコウモリという鉄棒の遊び、高い鉄棒に両脚を掛けて、頭を下にしてぶら下がり、そのかっこうがコウモリみたいだから、その名前に、からだを前後にゆらして、一回転して両脚で着地。やってみたら、みごと?失敗。ひざ下を地面に強打。痛かった、、歩けなくなった。。そのまま病院にいってレントゲン、骨折。
家から小学校まで、かなり急な坂をのぼる。おふくろは、近所からかりてきたのか、リヤカーにぼくをのせて、歩けるようになるまで、小学校まで送ってくれた。たくさんの同級生も、リヤカーをひっぱってくれた。
そのおふくろが亡くなって、来年七回忌。はやいな。。
明々後日の日曜は、母の日。今の時代、虐待もあったりだけど、いろんな状況でなんとも言えない、いちいばん弱いところにしわ寄せがかかるのだろう。
昔の母親は、生活を背負って懸命に生きて、子どもには本音ももらさず。。かな。すこし前の新聞の投稿「あけくれ」から
母の脚 by 大久保 則子(51)
母の頑張りは脚の不自由さからきていた。
今は亡き母は、それでも正社員枠で定年退職し女手一つで私を育ててくれた。
母のおかげで自分の家が貧乏だなんてみじんも思わなかった。雨風が強かろうが母は会社に出かけた。それでも雪の日、二年続けて転び入院をした。
私が小6、中一の冬だった。三カ月近く一人暮らしをした。ありがたいことに会社は母を見捨てず、私も寂しさを感じなかったのは友人たちのおかげだ。その中の一人とは今も会う。
一度だけ、私は母の脚のことを「どうして?」と聞いた。母はカチンときたのと虫の居所が悪いのとで、いつものよたよたでなく、さーっとエスカレータを上まで歩いて「これでいい」と言った。私は二度と脚のことにふれなかった。晩年は脚が痛いと言っていた母。私は八歳で父を亡くし、二十歳までは母におんぶにだっこだった。母の脚の痛さは15年勤続のけっぱりの証拠だったのだろう。今になって痛感する。
<引用以上>
昔は、学校で赤いカーネーションを母の日のために受け取り、母親のいない生徒は、白いカーネーションを。亡くなってもおふくろはおふくろ、感謝の日にしたい。
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