ひろひろ48 さんの日記
2023
4月
25
(火)
20:34
本文
歌はメロディーだけじゃなく、歌詞、詩が心を揺さぶる。
最近の歌も、早口で多くの言葉を歌に込めている。同じ世代の若者を捉えているのも歌詞、言葉だ。
懐メロ、当時の流行歌、ヒットソングも心を動かす歌詞、言葉とそれを乗せたメロディーがある。
卒業し就職で東京にきたころ、まだ友達もなく、仕事も研修期間で任せてもらえる仕事も残業もなく、お休みの日はほぼ100%自分の時間。当時はベトナム反戦や学生運動が大きくなってきている状況。新宿の西口「通路」は、まだ西口広場だった。新宿をぶらついて京王線で寮に帰るときにフォークゲリラと出くわした。多くの同じ世代がいて、自然にその輪に加わった。平和を歌う歌があった。
それからの流れで、会社の労働組合運動に参加し、理系の自分には、目新しい社会運動、歴史などを知る。その中で明治のころからの日本の女性文学者の生き様を知り、いろんな詩人が懸命に生き、詩歌を残していたのにひかれていった。茨木のり子の「わたしが一番きれいだったころ」、新川和江の「わたしを束ねないで」、永瀬清子の「だましてください 言葉やさしく」、金子みすゞの純粋な言葉。男性では、アンパンマンの生みの親、やなせたかしの温かい優しい言葉。一方で、ロシア革命の心の叫び、マヤコフスキーの純粋な情熱。デカプリオ主演の映画「月と太陽に背いて」の詩人ランボーもいい。くそったれ、飲んだくれのブコウスキーも好き。知らなかったが最近新書で取り上げられている反戦川柳人 鶴彬の言葉の鋭さ。
で、4月13日の朝刊の「あけくれ」で知った立原道造。
「道造さん」by 山内知子(71)
日暮里駅下車。紅葉坂の階段を上り、谷中霊園の道を歩く。
行く先は多宝院。
今日は風信子(ヒアシンス)忌。詩人立原道造の亡くなった日なのだ。
私が18歳で上京した時の夢は、大好きな道造さんのお墓参りに行くことだった。谷中が、東京のどこにあるかも知らなかったのに。
やっと数年後に、この道を歩いたのだった。あの時は迷いに迷って、数十分もかかったような気がする。
道造さんは美しく優しい詩を書き、友人への手紙を残し、建築設計の仕事をして、24歳八か月で亡くなってしまった。
お墓に小さな花束を供え、手を合わせる。亡くなったのは昭和14年。生き続けていたら、どうされていただろう。戦争の足音が聞こえてくるその中で、何を書いていただろう。
境内の木のベンチにすわり、立派な桜の木を見上げ、花びらがサラサラサラサラ散っていくのを見ていた3月19日だった。
<引用以上>
すばらしい文章、言葉のリズム、さすがかつて、いまも文学少女。立原道造の詩を読んでみたくなった。
ネットから「立原は、ギリシャ神話のヒアシンサス伝説に心を寄せ、自らの詩集を風信子叢書と名付け ていましたので、命日の3月29日を「風信子忌[ヒアシンスき]」と呼んでいます。 立原が青春を過ごした東大弥生門前にある立原道造記念館では、毎年、3月の最終土曜日に 「風信子忌」を開催し、全国から参集するファン等と立原を偲んでいます。」
最近の歌も、早口で多くの言葉を歌に込めている。同じ世代の若者を捉えているのも歌詞、言葉だ。
懐メロ、当時の流行歌、ヒットソングも心を動かす歌詞、言葉とそれを乗せたメロディーがある。
卒業し就職で東京にきたころ、まだ友達もなく、仕事も研修期間で任せてもらえる仕事も残業もなく、お休みの日はほぼ100%自分の時間。当時はベトナム反戦や学生運動が大きくなってきている状況。新宿の西口「通路」は、まだ西口広場だった。新宿をぶらついて京王線で寮に帰るときにフォークゲリラと出くわした。多くの同じ世代がいて、自然にその輪に加わった。平和を歌う歌があった。
それからの流れで、会社の労働組合運動に参加し、理系の自分には、目新しい社会運動、歴史などを知る。その中で明治のころからの日本の女性文学者の生き様を知り、いろんな詩人が懸命に生き、詩歌を残していたのにひかれていった。茨木のり子の「わたしが一番きれいだったころ」、新川和江の「わたしを束ねないで」、永瀬清子の「だましてください 言葉やさしく」、金子みすゞの純粋な言葉。男性では、アンパンマンの生みの親、やなせたかしの温かい優しい言葉。一方で、ロシア革命の心の叫び、マヤコフスキーの純粋な情熱。デカプリオ主演の映画「月と太陽に背いて」の詩人ランボーもいい。くそったれ、飲んだくれのブコウスキーも好き。知らなかったが最近新書で取り上げられている反戦川柳人 鶴彬の言葉の鋭さ。
で、4月13日の朝刊の「あけくれ」で知った立原道造。
「道造さん」by 山内知子(71)
日暮里駅下車。紅葉坂の階段を上り、谷中霊園の道を歩く。
行く先は多宝院。
今日は風信子(ヒアシンス)忌。詩人立原道造の亡くなった日なのだ。
私が18歳で上京した時の夢は、大好きな道造さんのお墓参りに行くことだった。谷中が、東京のどこにあるかも知らなかったのに。
やっと数年後に、この道を歩いたのだった。あの時は迷いに迷って、数十分もかかったような気がする。
道造さんは美しく優しい詩を書き、友人への手紙を残し、建築設計の仕事をして、24歳八か月で亡くなってしまった。
お墓に小さな花束を供え、手を合わせる。亡くなったのは昭和14年。生き続けていたら、どうされていただろう。戦争の足音が聞こえてくるその中で、何を書いていただろう。
境内の木のベンチにすわり、立派な桜の木を見上げ、花びらがサラサラサラサラ散っていくのを見ていた3月19日だった。
<引用以上>
すばらしい文章、言葉のリズム、さすがかつて、いまも文学少女。立原道造の詩を読んでみたくなった。
ネットから「立原は、ギリシャ神話のヒアシンサス伝説に心を寄せ、自らの詩集を風信子叢書と名付け ていましたので、命日の3月29日を「風信子忌[ヒアシンスき]」と呼んでいます。 立原が青春を過ごした東大弥生門前にある立原道造記念館では、毎年、3月の最終土曜日に 「風信子忌」を開催し、全国から参集するファン等と立原を偲んでいます。」
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