スピカ さんの日記
2023
2月
12
(日)
09:29
川のほとりで
本文
気がついたとき俺はすでに歩いていたのであるが、
時間の感覚が曖昧になっていて自分がどれくらいの間
歩き続けているのかまるでわからなかった。
わからないといえば此処がいったい何処なのかも
わからず、何のために歩いているのかも皆目
わからなかった。
おかしいなあ、おかしいなあ、とぶつぶつ呟きながら
歩いているのであるが辺り一帯には靄のようなものが
立ち込めており周囲の様子を窺い知ることはできないし、
なにより奇妙なことはいくら歩いても疲労を感じることも
なければ空腹や喉の渇きを覚えることもないということで
あった。
おかしいなあ。なんで足が勝手に動くんかなあ。
そういう呆けたような自問自答を延々と繰り返しながら
俺は歩き続けた。延々と歩き続けた。
そしてあるとき、俺は周囲の空気が変わってきたことに気づく。
周囲を覆っていた靄が徐々に薄れてきて周りの状況が認識
できるようになってきたのだ。さらに歩を進めていくと
さんざめく気配が濃くなっていき、突然スイッチが
切り替わるように視界が開けた。
目の前には幅20メートルくらいの川が横たわっていた。
川のほとりには同じような造りの茶店が軒を並べていて、
床几に腰を下ろして茶と一緒に団子や焼餅などを
喫している人たちがいる。辺りをよく見回すと
少し離れた川縁に船着き場のようなものがあり、
側に立っている巨大な看板にはこう大書してあった。
「歓迎 ようこそ三途の川へ」
なんだ。なんかおかしいと思ったら死んでたのか。
けれどこれじゃあまるで観光地じゃないかと俺は思った。
物珍しさで周囲にきょろきょろ目を向けていると
一人の男がやって来て「丸田大福さんですね」と問うた。
こいつは誰だと訝しく思いながらも俺が肯くと
男はごく事務的にこう言った。
「わたくしはお亡くなりになった方々が此岸と彼岸を
超えるための実務を担当してる者です。連絡を受けて
お待ちしておりました。さっそくですが丸田様があの世へ
参られるための手続きをおこないますので
事務所のほうにおいで願えますでしょうか」
男に連れられて行ったのは一軒の茶店だった。
ここを間借りして事務所にしているらしい。
狭い店内を通り抜け案内されたのは3畳ほどのスペースで、
中央には古ぼけた机が据えられ、それを挟むように二脚の
粗末な椅子が置いてあった。
男は一方の椅子に腰を下ろすと向かいの椅子に腰掛けるよう
俺を促した。部屋の周囲は四方とも書棚になっており、
どの棚にもぎっしりと書類がつまっていた。
圧迫感を感じる狭い空間にはかすかに線香の香りが
漂っている気がした。
「さて」と男は言って、引き出しのひとつから
真新しく見えるファイルを取り出して一通り目を通すと
俺の死亡時の状況と死者が死後の世界に移行するために
履まなければならない手順についての説明をした。
男の説明は整然として澱みがなく、
長い間それを職業にしてきた者だけが持つ無駄のなさがあった。
「ところで丸田様」、と少し改まった調子で男は訊ねてきた。
「これはすべての方に当てはまることではないのでご希望に
添えない場合もございますが、ある条件を満たされている方は
元の世界にお戻りになることも・・・できるのです。
もし希望されるのであれば丸田様にそれが可能か
お調べすることもできますが」
「えっ?それは条件さえ合えば生き返ることが出来るってこと?」
「はい。丸田様は臨死体験をされた人の話を聞かれたことが
あるやも知れませんがそういった方々というのは一度ここまで
来て引き返された方々なのです」
「へえ・・そうなんですね。じゃあ調べてもらおうかな」
「承知しました。では少しだけお待ちください」そう言って
男は席を外し、しばらくすると戻ってきて必要なことだけを
感情を交えずに淡々と告げた。
「確認しましたところ、丸田様のお身体はすでに荼毘にふされた
後でございまして、あちらにお戻りになっても魂のお宿りになる
容体がございません。残念ですがお戻りにはなれませんね」
容体がございませんと言われても今ここにいる俺には
ちゃんと体が備わっているのだから
このまま戻ればそれでいいのではないだろうか。
そのことを俺が問うと男は何度か深く頷いてから
諭すように言った。
「人間は儚くなりますとその精神の総体は体から
離れてしまいます。いわゆる魂と呼ばれる存在になるのですね。
しかし魂とか思念だけの世界というのは余りにも
曖昧模糊としていてあちらからやって来られた方には馴染みません。
なのでここでは便宜上の体が与えられているのです。
ただしこれは実際の肉体ではなく観念のようなもの、
つまり実態のないものなのです」
「じゃあ、あの」と、俺は店先の床几に座って団子を食べている人を
指して訊いた。
「あの人もじつは実態のない魂だけの存在で、あの人が食べている
団子も架空のものなの?」
「そのとおりです」男はにっこり笑って答えた。
「お腹は空いてないと思いますが何かお食べになればいかがですか。
実態のない団子ですが団子という観念を持ってらっしゃる方には
ちゃんと団子の味がしますよ」
その後、男から幾つかの説明と注意事項を聞き、
最後に同意書に拇印を押してすべての事務手続きは終了した。
俺は自分の死を受け入れた。
そろそろあなたを渡すための船が着くころですという男に送られて
船着き場に向かった。川の向こう岸はやはり靄のようなものが
かかっていてどうような風景がひろがっているのか
わからない。よほど不安そうに見えるのか男が励ますように言う。
「なにも案じることはありません。すでに連絡がいっているので
向こう岸では出迎えが待機しています」
やがて靄の中から手漕ぎの小舟が現れて木組みの桟橋に横付けになった。
船頭は男と顔馴染みらしく互いに頷き合った。じゃあ私の仕事は
ここまでですと一礼し、男は踵を返した。俺は船頭に軽く頭を下げ
船に乗り込み艫の部分に腰をおろした。
船頭は器用な手つきで船を旋回させ、向こう岸を目指し艪を漕ぎ始めた。
川の流れは緩やかで深さもそれほどないように思えたが川底は見えない。
それほど幅の広い川ではないのですぐに岸辺が近付いてきて同時に
靄が途切れ始めた。艪の軋む音、水流が船にぶつかる音に混じり
誰かの叫ぶ声がする。
それは「兄ちゃーん」「兄ちゃーん」という叫び声に聞こえた。
なんだよ「兄ちゃん」って。俺は船に腰を下ろしたまま声のする方へ
目を凝らした。
靄の中から船着き場が見えてきた。その傍らには3人の人間が立っていて、
真ん中の男が声を限りに「兄ちゃん」と叫んでいる。
あっ!!うそ!! なんという・・・そういうことだったのかぁ。
絶叫している男の顔には見覚えがあった。 弟の大吉である。
紛れもなく早世した弟だった。弟とはつまらぬことで大喧嘩をした。
そして弟は、和解することもできないままに病を得て
不帰の人となったのである。
弟は泣いていた。泣きながら叫んでいた。
そして弟を挟むようにして穏やかに佇んでいるのは
両親である。俺は鼻がムズムズしてきた。
もうアカン、泣いてしまうと思った・・って言うか、
すでに弟の名を呼びながら号泣してるやないか俺は。
小舟が桟橋に着いた。船頭はこういう風景は見飽きてるといった態度で
クールに「着いたよ」と告げた。俺はもうなりふり構わずにわーわーと
号泣していたのであるが僅かに残ってる冷静な部分で
そう言えばこの船頭が喋るのを初めて聞いたなと場違いなことを
思ってもいたのである。
時間の感覚が曖昧になっていて自分がどれくらいの間
歩き続けているのかまるでわからなかった。
わからないといえば此処がいったい何処なのかも
わからず、何のために歩いているのかも皆目
わからなかった。
おかしいなあ、おかしいなあ、とぶつぶつ呟きながら
歩いているのであるが辺り一帯には靄のようなものが
立ち込めており周囲の様子を窺い知ることはできないし、
なにより奇妙なことはいくら歩いても疲労を感じることも
なければ空腹や喉の渇きを覚えることもないということで
あった。
おかしいなあ。なんで足が勝手に動くんかなあ。
そういう呆けたような自問自答を延々と繰り返しながら
俺は歩き続けた。延々と歩き続けた。
そしてあるとき、俺は周囲の空気が変わってきたことに気づく。
周囲を覆っていた靄が徐々に薄れてきて周りの状況が認識
できるようになってきたのだ。さらに歩を進めていくと
さんざめく気配が濃くなっていき、突然スイッチが
切り替わるように視界が開けた。
目の前には幅20メートルくらいの川が横たわっていた。
川のほとりには同じような造りの茶店が軒を並べていて、
床几に腰を下ろして茶と一緒に団子や焼餅などを
喫している人たちがいる。辺りをよく見回すと
少し離れた川縁に船着き場のようなものがあり、
側に立っている巨大な看板にはこう大書してあった。
「歓迎 ようこそ三途の川へ」
なんだ。なんかおかしいと思ったら死んでたのか。
けれどこれじゃあまるで観光地じゃないかと俺は思った。
物珍しさで周囲にきょろきょろ目を向けていると
一人の男がやって来て「丸田大福さんですね」と問うた。
こいつは誰だと訝しく思いながらも俺が肯くと
男はごく事務的にこう言った。
「わたくしはお亡くなりになった方々が此岸と彼岸を
超えるための実務を担当してる者です。連絡を受けて
お待ちしておりました。さっそくですが丸田様があの世へ
参られるための手続きをおこないますので
事務所のほうにおいで願えますでしょうか」
男に連れられて行ったのは一軒の茶店だった。
ここを間借りして事務所にしているらしい。
狭い店内を通り抜け案内されたのは3畳ほどのスペースで、
中央には古ぼけた机が据えられ、それを挟むように二脚の
粗末な椅子が置いてあった。
男は一方の椅子に腰を下ろすと向かいの椅子に腰掛けるよう
俺を促した。部屋の周囲は四方とも書棚になっており、
どの棚にもぎっしりと書類がつまっていた。
圧迫感を感じる狭い空間にはかすかに線香の香りが
漂っている気がした。
「さて」と男は言って、引き出しのひとつから
真新しく見えるファイルを取り出して一通り目を通すと
俺の死亡時の状況と死者が死後の世界に移行するために
履まなければならない手順についての説明をした。
男の説明は整然として澱みがなく、
長い間それを職業にしてきた者だけが持つ無駄のなさがあった。
「ところで丸田様」、と少し改まった調子で男は訊ねてきた。
「これはすべての方に当てはまることではないのでご希望に
添えない場合もございますが、ある条件を満たされている方は
元の世界にお戻りになることも・・・できるのです。
もし希望されるのであれば丸田様にそれが可能か
お調べすることもできますが」
「えっ?それは条件さえ合えば生き返ることが出来るってこと?」
「はい。丸田様は臨死体験をされた人の話を聞かれたことが
あるやも知れませんがそういった方々というのは一度ここまで
来て引き返された方々なのです」
「へえ・・そうなんですね。じゃあ調べてもらおうかな」
「承知しました。では少しだけお待ちください」そう言って
男は席を外し、しばらくすると戻ってきて必要なことだけを
感情を交えずに淡々と告げた。
「確認しましたところ、丸田様のお身体はすでに荼毘にふされた
後でございまして、あちらにお戻りになっても魂のお宿りになる
容体がございません。残念ですがお戻りにはなれませんね」
容体がございませんと言われても今ここにいる俺には
ちゃんと体が備わっているのだから
このまま戻ればそれでいいのではないだろうか。
そのことを俺が問うと男は何度か深く頷いてから
諭すように言った。
「人間は儚くなりますとその精神の総体は体から
離れてしまいます。いわゆる魂と呼ばれる存在になるのですね。
しかし魂とか思念だけの世界というのは余りにも
曖昧模糊としていてあちらからやって来られた方には馴染みません。
なのでここでは便宜上の体が与えられているのです。
ただしこれは実際の肉体ではなく観念のようなもの、
つまり実態のないものなのです」
「じゃあ、あの」と、俺は店先の床几に座って団子を食べている人を
指して訊いた。
「あの人もじつは実態のない魂だけの存在で、あの人が食べている
団子も架空のものなの?」
「そのとおりです」男はにっこり笑って答えた。
「お腹は空いてないと思いますが何かお食べになればいかがですか。
実態のない団子ですが団子という観念を持ってらっしゃる方には
ちゃんと団子の味がしますよ」
その後、男から幾つかの説明と注意事項を聞き、
最後に同意書に拇印を押してすべての事務手続きは終了した。
俺は自分の死を受け入れた。
そろそろあなたを渡すための船が着くころですという男に送られて
船着き場に向かった。川の向こう岸はやはり靄のようなものが
かかっていてどうような風景がひろがっているのか
わからない。よほど不安そうに見えるのか男が励ますように言う。
「なにも案じることはありません。すでに連絡がいっているので
向こう岸では出迎えが待機しています」
やがて靄の中から手漕ぎの小舟が現れて木組みの桟橋に横付けになった。
船頭は男と顔馴染みらしく互いに頷き合った。じゃあ私の仕事は
ここまでですと一礼し、男は踵を返した。俺は船頭に軽く頭を下げ
船に乗り込み艫の部分に腰をおろした。
船頭は器用な手つきで船を旋回させ、向こう岸を目指し艪を漕ぎ始めた。
川の流れは緩やかで深さもそれほどないように思えたが川底は見えない。
それほど幅の広い川ではないのですぐに岸辺が近付いてきて同時に
靄が途切れ始めた。艪の軋む音、水流が船にぶつかる音に混じり
誰かの叫ぶ声がする。
それは「兄ちゃーん」「兄ちゃーん」という叫び声に聞こえた。
なんだよ「兄ちゃん」って。俺は船に腰を下ろしたまま声のする方へ
目を凝らした。
靄の中から船着き場が見えてきた。その傍らには3人の人間が立っていて、
真ん中の男が声を限りに「兄ちゃん」と叫んでいる。
あっ!!うそ!! なんという・・・そういうことだったのかぁ。
絶叫している男の顔には見覚えがあった。 弟の大吉である。
紛れもなく早世した弟だった。弟とはつまらぬことで大喧嘩をした。
そして弟は、和解することもできないままに病を得て
不帰の人となったのである。
弟は泣いていた。泣きながら叫んでいた。
そして弟を挟むようにして穏やかに佇んでいるのは
両親である。俺は鼻がムズムズしてきた。
もうアカン、泣いてしまうと思った・・って言うか、
すでに弟の名を呼びながら号泣してるやないか俺は。
小舟が桟橋に着いた。船頭はこういう風景は見飽きてるといった態度で
クールに「着いたよ」と告げた。俺はもうなりふり構わずにわーわーと
号泣していたのであるが僅かに残ってる冷静な部分で
そう言えばこの船頭が喋るのを初めて聞いたなと場違いなことを
思ってもいたのである。
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