freescaleII さんの日記
2022
8月
28
(日)
18:56
本文
タイトルどおり、鴎外がしばしばザクセン軍士官達と訪ねたデーベン城へ行ってきました。ドイツ帝国なのに何故ザクセン軍なのか疑問を持たれる方がいると思いますが、話が長くなりますので...
城主のvon Belowさんに庭で出迎えて頂いて、と言ってもお城の無い城主様で...眼科のドクターです。
と言うのは1970代にザクセン王国最古の城は社会主義者により、社会主義に相応しくないとか、キリスト教が気に入らないとかで、爆薬で木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったのです。もう数年頑張ったら東ドイツ政府が終わりなんとか保存できたのですが。
歴史を紐解いてみると、今の城主von Belowさんのご先祖は1779年に男の跡継ぎのいないこの家に婿、いや名前が婿さんの苗字に変わったから婿とは言えませんね。
鷗外がライプツィヒに滞在していたのは1年間(1884~1885)
ライプツィヒ滞在中にこの近辺での演習に士官として参加し、近くの館に泊まっていました。
1885年の9月5日に当時の城主オットーvon Böhlau と夫人のアマリエ、そして娘たちと知り合いになりました。
その事については彼のドイツ日記に書かれています。「Der Schlossherr von Bülow」
城主のvon Bülowと書かれていますが、Böhlauが正しく、おそらく聞き違えたのでしょう。
老いた von Böhlau は60歳ぐらいだったそうです。そして彼は鴎外に家の訪問者帳に彼らvon Böhlau家の家族の名前を日本語で書いて欲しいとお願いしましました。
そして彼の6人の娘を紹介しました。(後の3人の娘は外出中)
「マリアは際立つ美貌を、イダは美しい目を持ち、 他に名前は忘れたが一人の娘は額にいつも愁いのある悲しみをおびていました。 トニはとても細く、大きな目をしていた。 アンナは 小さな鼻、突き出た額、ヘレナは背中が丸くなっていた。私にはこの家族との出会いがとても印象的だった。」
........途中省略
淡い恋の話。イダ・フォン・ベーロウ、は話の主役であったが、本当に二人の間に恋愛関係が有ったかどうかは不明である。
しかし日本の侍の家の出の鴎外に外国人を受け入れることは考えられない筈でした。
イダにとっても同じことで、彼女の高貴な血筋を捨てること、そして外国人と結ばれるのに家から許可が出なかったからです。
この外国人との出会い、彼のイダに対する敬慕については家族以外の誰も知らなかった。
この後まだまだ長く続きますので翻訳止めます。
さて生誕記念のパーティは入り口の門から、役者の芝居から始まりました。
もちろん鴎外とイダの恋バナを詩と抽象劇にしたものです。
芝居が進むに連れて日本人のフルート奏者による尺八?が流れ、詩の朗読が有りました。
明るかった空も、段々と薄暗くなりロウソクを
付けて皆さん敷地を歩きました。
そして最後にパビリオンに着き、ピアノとチェロ、そしてフルートで日本の海辺の歌や荒城の月の演奏で終わりました。
最初にパビリオンの前の広場にて芝居の演出家と話をしていたときに、この暑さの中、毛皮の襟の付いたマントル(オーバーコート)を着て帽子を深く被った女性が近づいて来ましたが、簡単にこんにちは程度の挨拶を返しました。しかし私と話がしたいと見えてしばらく待っていましたが、長く続くと思い離れて行きました。
しかし私も少し礼を失っしたかなと思い彼女を探しだし、先ほどのご無礼をお許し下さいと改めて自己紹介し、貴女は?と聞きました。「私はバロン(男爵)von Belowです]
との答えが。
という事は城主の奥方.....
そして私に招待メールを送ってくれた方でした。
上品なあたりの柔らかな方で、もちろん男爵と結婚すれば夫人も男爵になりますが、彼女の名前からするとやはりそれなりの由緒ある家の出だと思われます。
ここには日本人やドイツ人の鴎外研究者が時々訪れると見えて、日本人に対する尊敬の念を抱く人達が多いのです。
街、いや村?の報道写真を撮っている人まで丁寧な挨拶をしに来ました。
総ては森鴎外の偉大な功績のおかげですね。
久しぶりに会った日本人女性がいました。
近くの教会で音楽監督をされているオルガン奏者の方です。
コロナ過も重症者が減って教会もそろそろ活気が出て来たんじゃないのと聞いたら、とんでもない「エネルギー節約でパイプオルガンの電気を切られてしまうので弾くことが出来ない」とぼやいていました。
パイプオルガンとは電子楽器だったのですね(笑)
一緒に連れていった隣の仲良し婆ちゃんの息子が、その友達の外科医と共に現れ、なんとその外科医は城主の友人で、婆ちゃんと城主、息子と皆繋がってました。息子も教育学博士で日本にも時々行くそうです。
ここは婆ちゃんが第二の故郷と言う、学生時代を過ごした街が隣なのでなんとなく張り切っていました。
城主夫人も芝居に参加していました。これで毛皮の襟のついたマントルを着ていたわけがわかりました。
敷地の中にお墓が有りました。昔は大きな貴族の屋敷には家族を埋葬する大きなお墓が有りました。
おそらく貧富という偏屈な物差しでしか歴史と文化を見ることの出来ない社会主義者により破壊されてしまったのだと思います。
今度行ったときに詳しく聞いてみます。
再建されたパビリオンです。
鷗外はこんな風景を眺めながら頭の中では将来の作品の構想を浮かべていたのでしょう。
城主のvon Belowさんに庭で出迎えて頂いて、と言ってもお城の無い城主様で...眼科のドクターです。
と言うのは1970代にザクセン王国最古の城は社会主義者により、社会主義に相応しくないとか、キリスト教が気に入らないとかで、爆薬で木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったのです。もう数年頑張ったら東ドイツ政府が終わりなんとか保存できたのですが。
歴史を紐解いてみると、今の城主von Belowさんのご先祖は1779年に男の跡継ぎのいないこの家に婿、いや名前が婿さんの苗字に変わったから婿とは言えませんね。
鷗外がライプツィヒに滞在していたのは1年間(1884~1885)
ライプツィヒ滞在中にこの近辺での演習に士官として参加し、近くの館に泊まっていました。
1885年の9月5日に当時の城主オットーvon Böhlau と夫人のアマリエ、そして娘たちと知り合いになりました。
その事については彼のドイツ日記に書かれています。「Der Schlossherr von Bülow」
城主のvon Bülowと書かれていますが、Böhlauが正しく、おそらく聞き違えたのでしょう。
老いた von Böhlau は60歳ぐらいだったそうです。そして彼は鴎外に家の訪問者帳に彼らvon Böhlau家の家族の名前を日本語で書いて欲しいとお願いしましました。
そして彼の6人の娘を紹介しました。(後の3人の娘は外出中)
「マリアは際立つ美貌を、イダは美しい目を持ち、 他に名前は忘れたが一人の娘は額にいつも愁いのある悲しみをおびていました。 トニはとても細く、大きな目をしていた。 アンナは 小さな鼻、突き出た額、ヘレナは背中が丸くなっていた。私にはこの家族との出会いがとても印象的だった。」
........途中省略
淡い恋の話。イダ・フォン・ベーロウ、は話の主役であったが、本当に二人の間に恋愛関係が有ったかどうかは不明である。
しかし日本の侍の家の出の鴎外に外国人を受け入れることは考えられない筈でした。
イダにとっても同じことで、彼女の高貴な血筋を捨てること、そして外国人と結ばれるのに家から許可が出なかったからです。
この外国人との出会い、彼のイダに対する敬慕については家族以外の誰も知らなかった。
この後まだまだ長く続きますので翻訳止めます。
さて生誕記念のパーティは入り口の門から、役者の芝居から始まりました。
もちろん鴎外とイダの恋バナを詩と抽象劇にしたものです。
芝居が進むに連れて日本人のフルート奏者による尺八?が流れ、詩の朗読が有りました。
明るかった空も、段々と薄暗くなりロウソクを
付けて皆さん敷地を歩きました。
そして最後にパビリオンに着き、ピアノとチェロ、そしてフルートで日本の海辺の歌や荒城の月の演奏で終わりました。
最初にパビリオンの前の広場にて芝居の演出家と話をしていたときに、この暑さの中、毛皮の襟の付いたマントル(オーバーコート)を着て帽子を深く被った女性が近づいて来ましたが、簡単にこんにちは程度の挨拶を返しました。しかし私と話がしたいと見えてしばらく待っていましたが、長く続くと思い離れて行きました。
しかし私も少し礼を失っしたかなと思い彼女を探しだし、先ほどのご無礼をお許し下さいと改めて自己紹介し、貴女は?と聞きました。「私はバロン(男爵)von Belowです]
との答えが。
という事は城主の奥方.....
そして私に招待メールを送ってくれた方でした。
上品なあたりの柔らかな方で、もちろん男爵と結婚すれば夫人も男爵になりますが、彼女の名前からするとやはりそれなりの由緒ある家の出だと思われます。
ここには日本人やドイツ人の鴎外研究者が時々訪れると見えて、日本人に対する尊敬の念を抱く人達が多いのです。
街、いや村?の報道写真を撮っている人まで丁寧な挨拶をしに来ました。
総ては森鴎外の偉大な功績のおかげですね。
久しぶりに会った日本人女性がいました。
近くの教会で音楽監督をされているオルガン奏者の方です。
コロナ過も重症者が減って教会もそろそろ活気が出て来たんじゃないのと聞いたら、とんでもない「エネルギー節約でパイプオルガンの電気を切られてしまうので弾くことが出来ない」とぼやいていました。
パイプオルガンとは電子楽器だったのですね(笑)
一緒に連れていった隣の仲良し婆ちゃんの息子が、その友達の外科医と共に現れ、なんとその外科医は城主の友人で、婆ちゃんと城主、息子と皆繋がってました。息子も教育学博士で日本にも時々行くそうです。
ここは婆ちゃんが第二の故郷と言う、学生時代を過ごした街が隣なのでなんとなく張り切っていました。
城主夫人も芝居に参加していました。これで毛皮の襟のついたマントルを着ていたわけがわかりました。
敷地の中にお墓が有りました。昔は大きな貴族の屋敷には家族を埋葬する大きなお墓が有りました。
おそらく貧富という偏屈な物差しでしか歴史と文化を見ることの出来ない社会主義者により破壊されてしまったのだと思います。
今度行ったときに詳しく聞いてみます。
再建されたパビリオンです。
鷗外はこんな風景を眺めながら頭の中では将来の作品の構想を浮かべていたのでしょう。
閲覧(1527)
カテゴリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |