tinc さんの日記
2022
4月
24
(日)
20:34
本文
怒りっぽい人はよく「相手が自分を怒らせた」との表現をする。怒りの感情は自身の内部のものだがそれを発現させた責任は相手にある、ということなのだと思う。
私は感情について多くを知らないので、例えば怒りっぽい人はだいたい相手を打倒しようとしているのに自身の感情が相手の行為に左右されるという脆弱さを認めてしまっては不利なのではないかとか、ひとの行為には多くの人の怒りの契機となるものとごく少数の人からしか怒りを引き出さないものがあり、そしてその中間のものがあるのだと思うが、その程度は一元的に説明がつくものなのかとか、色々な疑問を持っている。
感情は果たしてそれを抱く人の中にあるものだろうか。他者の行為や環境の要因がそれを引き出すことがあるということは、外部と何らかの接点を持つものではないのか。あるいは何の刺激も無いところに長期間置かれれば感情は遠のいてしまうのではないか。もしそうであれば主体と環境の関係の中に感情が所在するのかもしれない。
心は胸や頭の中にあるのではなく身体を包むように存在しているという意見を聞いたことがある。私は現在精神的な働きは脳の機能によると考えているのでこの意見を採用するには工夫を要するが、例えば心を非物質的なものと見なせばその規定も可能だと思う。感情が身体の外部と接点を有する等の見方はこの意見に立てば視覚的に想像しやすくなるという利便性もあるだろう。当然心が完全に非物質的なものであるとすれば物質である身体との間に生じる作用や知らないことに対する心の働きが無いことの説明がし難くなる等の不便さもある。また心の非物質性が完全ではなく心が物質的な側面と非物質的な側面を有するとなればそれらの割合や物質とは何であるかの説明が必要になる。
万能の理論は無い。心にせよ精神にせよ感情にせよ、ある程度重要と見なされているものだが十分に知られているとは云えないようだ。私は長生きすればいつか例えば超弦理論を理解するかもしれない。しかし心や精神や感情について私が何かを理解する見込みは無さそうである。
私は感情について多くを知らないので、例えば怒りっぽい人はだいたい相手を打倒しようとしているのに自身の感情が相手の行為に左右されるという脆弱さを認めてしまっては不利なのではないかとか、ひとの行為には多くの人の怒りの契機となるものとごく少数の人からしか怒りを引き出さないものがあり、そしてその中間のものがあるのだと思うが、その程度は一元的に説明がつくものなのかとか、色々な疑問を持っている。
感情は果たしてそれを抱く人の中にあるものだろうか。他者の行為や環境の要因がそれを引き出すことがあるということは、外部と何らかの接点を持つものではないのか。あるいは何の刺激も無いところに長期間置かれれば感情は遠のいてしまうのではないか。もしそうであれば主体と環境の関係の中に感情が所在するのかもしれない。
心は胸や頭の中にあるのではなく身体を包むように存在しているという意見を聞いたことがある。私は現在精神的な働きは脳の機能によると考えているのでこの意見を採用するには工夫を要するが、例えば心を非物質的なものと見なせばその規定も可能だと思う。感情が身体の外部と接点を有する等の見方はこの意見に立てば視覚的に想像しやすくなるという利便性もあるだろう。当然心が完全に非物質的なものであるとすれば物質である身体との間に生じる作用や知らないことに対する心の働きが無いことの説明がし難くなる等の不便さもある。また心の非物質性が完全ではなく心が物質的な側面と非物質的な側面を有するとなればそれらの割合や物質とは何であるかの説明が必要になる。
万能の理論は無い。心にせよ精神にせよ感情にせよ、ある程度重要と見なされているものだが十分に知られているとは云えないようだ。私は長生きすればいつか例えば超弦理論を理解するかもしれない。しかし心や精神や感情について私が何かを理解する見込みは無さそうである。
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