tinc さんの日記
2022
4月
20
(水)
19:29
本文
私は現在ある障害者福祉施設に勤務している。施設利用者の中には知的障害や発達障害を持つ方もおり、彼らに対しては職員が普通と思っている言葉や論理が通用しないことも多い。そのような時には職員は構造化と呼ばれる道を模索することになる。利用者本人にとって分かりやすい言葉や論理を探して用いるということである。
構造化なる概念は人間が事物を理解するのに何らかの構造を必要とすることを前提としている。例えばマグマという代数的構造がある。これはとても少ない制約しか持たずしたがって構造として混沌としており、マグマをマグマとして考察してもそこから導出される結論はあまりに平凡あるいはあまりに特殊なものになるため、マグマ自体を考察する機会は現実には少ない。また多くの物が所狭しとでたらめに置かれている部屋の中で何かを探すことは整頓されている部屋で探しものをすることよりも難しい。
非構造性や乱雑さへの対応の可能な程度には個人差もその時の状態や状況の影響もある。知的障害や発達障害に由来しない、例えばその時心理的に切迫している等の事情で理解力に低下を来すことは多くの人が経験するのではないかと思う。精神的な余裕に乏しく、聞きたくない言葉を受け入れられないという時はおそらく誰にもあるものだ。
ところで私は芸術を解さない。しかし芸術に触れたり芸術に身を投じている人の話を聞いたりするのは好きで、そのような機会には私は芸術家は独自の構造を精神の中に持っているのではないかと感じることがある。形状や色彩や文体に対する感覚、具象と抽象とそれらの中間の選択の基準、思想を文字にする技法、筆致といった要素の数々は彼らのものの見方やその理解の構造を知ることでなぜそうなっていのかいくらかは理解できるものなのかもしれない。私は重要なのは作品であって作者ではないという考えに寄っているほうだと思う一方、作者に関する情報があるなら作品の理解に際しそれを無視することは必ずしも必要でないとも思う。
人間の精神にも構造を見出すことができるのならば、私がこれほど理解に苦労している他人の思想や意見についても何らかの展望を得ることができるかもしれない。しかし構造が存在するとしてそれが私の理解の及ぶような種類の構造であるとは限らない。それがいくつ存在するのかも分からないし、数えられるものではないのかもしれない。施設利用者の言動の背景にある精神の構造の一端に触れることが叶った時にも、成立するのはその場のやり取りであってその人に対する理解とは違う。
何かを知っていると思っていることとそれを実際に知っていることとは異なる。両者の弁別は常に困難である。だから自分が何も知らないのではないかという私の疑問はそれほど馬鹿げたものではない。
構造化なる概念は人間が事物を理解するのに何らかの構造を必要とすることを前提としている。例えばマグマという代数的構造がある。これはとても少ない制約しか持たずしたがって構造として混沌としており、マグマをマグマとして考察してもそこから導出される結論はあまりに平凡あるいはあまりに特殊なものになるため、マグマ自体を考察する機会は現実には少ない。また多くの物が所狭しとでたらめに置かれている部屋の中で何かを探すことは整頓されている部屋で探しものをすることよりも難しい。
非構造性や乱雑さへの対応の可能な程度には個人差もその時の状態や状況の影響もある。知的障害や発達障害に由来しない、例えばその時心理的に切迫している等の事情で理解力に低下を来すことは多くの人が経験するのではないかと思う。精神的な余裕に乏しく、聞きたくない言葉を受け入れられないという時はおそらく誰にもあるものだ。
ところで私は芸術を解さない。しかし芸術に触れたり芸術に身を投じている人の話を聞いたりするのは好きで、そのような機会には私は芸術家は独自の構造を精神の中に持っているのではないかと感じることがある。形状や色彩や文体に対する感覚、具象と抽象とそれらの中間の選択の基準、思想を文字にする技法、筆致といった要素の数々は彼らのものの見方やその理解の構造を知ることでなぜそうなっていのかいくらかは理解できるものなのかもしれない。私は重要なのは作品であって作者ではないという考えに寄っているほうだと思う一方、作者に関する情報があるなら作品の理解に際しそれを無視することは必ずしも必要でないとも思う。
人間の精神にも構造を見出すことができるのならば、私がこれほど理解に苦労している他人の思想や意見についても何らかの展望を得ることができるかもしれない。しかし構造が存在するとしてそれが私の理解の及ぶような種類の構造であるとは限らない。それがいくつ存在するのかも分からないし、数えられるものではないのかもしれない。施設利用者の言動の背景にある精神の構造の一端に触れることが叶った時にも、成立するのはその場のやり取りであってその人に対する理解とは違う。
何かを知っていると思っていることとそれを実際に知っていることとは異なる。両者の弁別は常に困難である。だから自分が何も知らないのではないかという私の疑問はそれほど馬鹿げたものではない。
閲覧(815)
カテゴリー | ||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |