tinc さんの日記
2022
3月
7
(月)
12:32
本文
私は日頃ひとと会話をする中で、陰鬱な顔で平坦な相槌を打つばかりといういかにも病的な様相を見せることが多い。たまに意見のようなものを述べることもあるが、それは特に求められた場合か、自分の中に言いたいことが生じた場合に限られる。つまり私はひとと話すことやひとの話を聞くことをとても苦手にしている。
誰かが何かを話しているのに私の反応がつまらぬ相槌に終始するのは、多くの場合ひとの話が何かの出来事を述べるものであり、その出来事についてその人がどう感じて何を考えているかが私には分かりにくいからである。語気や表情からその出来事に立腹しているとか理不尽を感じているとかいうことが何となく伝わってくる場合もあるものの、そういった場合でもその立腹や理不尽の感覚はその人のどのようなものの見方や価値観に立脚しているのかが見えないことも多く、相槌の他に私の返せるものは多くの場合に多くない。
世の中の多くの人には私の分からないことが分かって、双方の価値観や感覚をわざわざ言明するまでもなく会話を成立させることができているようなので、私は一時期自分が知的な障害を抱えているのではないかと疑ったことがあった。精神科病院で受けた知能テストの結果からは私の知的障害は判明しなかったが、それならば知能とは別のところに私は何らかの問題を抱えているのであろうということが現時点での私の結論である。
私はたまに耐えかねて「それであなたはどう思ったのですか?」とひとの話に口を挟んでしまうことがある。存外「失恋して、自分は誰からも愛されない人間なのだと思って辛くなった」というような答えが返ってくることがあり、そのような時には私はとても驚く。特定の相手との恋愛が成立しなくなったことでそれが全世界の(その人の恋愛の対象となりうる)人に当てはまるなどというのは私からすれば無根拠な、著しく偏った考えだからである。
口を挟むならせめて状況を整理できればよいのに、私は勝手に自分の混乱に拍車をかけることになる。このようなことの繰り返しなので会話とは厄介なものだという感覚が私にはあるのだが、厄介でない会話もあるのだろうからこの私の感覚も偏っていて誤っているはずである。
私の頭の中はいつもひどい有様で、偏見と誤解と無知に満ちている。しかしおそらく他の人の頭の中も、収まるべきものが収まるべきところにきれいに入っていて無駄なものが無いということではないのだと思う。もし頭の中がそれほどまでにかけ離れていれば私は今有している程度の人間関係とも無縁であったであろう。
若い頃にふと思ったのは、みんな大変なんだな、ということであった。自分は大変な思いをしながら生きている。誰もがきっとそうなのだ。大変さの中身も程度もみんな異なるのでそれで共通の認識に至ることは少なくとも、楽でしょうがないという人は多分とても少ない。
人はみな異なりつつ共通の部分を持っている。だから私はまだ対話を諦める気にならない。
誰かが何かを話しているのに私の反応がつまらぬ相槌に終始するのは、多くの場合ひとの話が何かの出来事を述べるものであり、その出来事についてその人がどう感じて何を考えているかが私には分かりにくいからである。語気や表情からその出来事に立腹しているとか理不尽を感じているとかいうことが何となく伝わってくる場合もあるものの、そういった場合でもその立腹や理不尽の感覚はその人のどのようなものの見方や価値観に立脚しているのかが見えないことも多く、相槌の他に私の返せるものは多くの場合に多くない。
世の中の多くの人には私の分からないことが分かって、双方の価値観や感覚をわざわざ言明するまでもなく会話を成立させることができているようなので、私は一時期自分が知的な障害を抱えているのではないかと疑ったことがあった。精神科病院で受けた知能テストの結果からは私の知的障害は判明しなかったが、それならば知能とは別のところに私は何らかの問題を抱えているのであろうということが現時点での私の結論である。
私はたまに耐えかねて「それであなたはどう思ったのですか?」とひとの話に口を挟んでしまうことがある。存外「失恋して、自分は誰からも愛されない人間なのだと思って辛くなった」というような答えが返ってくることがあり、そのような時には私はとても驚く。特定の相手との恋愛が成立しなくなったことでそれが全世界の(その人の恋愛の対象となりうる)人に当てはまるなどというのは私からすれば無根拠な、著しく偏った考えだからである。
口を挟むならせめて状況を整理できればよいのに、私は勝手に自分の混乱に拍車をかけることになる。このようなことの繰り返しなので会話とは厄介なものだという感覚が私にはあるのだが、厄介でない会話もあるのだろうからこの私の感覚も偏っていて誤っているはずである。
私の頭の中はいつもひどい有様で、偏見と誤解と無知に満ちている。しかしおそらく他の人の頭の中も、収まるべきものが収まるべきところにきれいに入っていて無駄なものが無いということではないのだと思う。もし頭の中がそれほどまでにかけ離れていれば私は今有している程度の人間関係とも無縁であったであろう。
若い頃にふと思ったのは、みんな大変なんだな、ということであった。自分は大変な思いをしながら生きている。誰もがきっとそうなのだ。大変さの中身も程度もみんな異なるのでそれで共通の認識に至ることは少なくとも、楽でしょうがないという人は多分とても少ない。
人はみな異なりつつ共通の部分を持っている。だから私はまだ対話を諦める気にならない。
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