tinc さんの日記
2022
3月
4
(金)
21:14
本文
図らずも多忙が続いている。私の場合多忙の原因は自身の無能である。用事を先延ばしにしたり先延ばしにしているうちに忘れたり、単にやる気を有さないので遅滞させているうちに用事が溜まってゆく。そんなことをしていれば時間等資源に窮して苦しくなるのは当たり前なのだが、それを「図らずも」と表現するあたりに私の無能の本質の一つが表れていると云えよう。当たり前のことを理解していないということである。
多忙になってくるとその時に抱えている用事のことで頭はいっぱいになってくるもので、家事もおろそかになれば人付き合いも希薄になる。これは私の事情なので他の人は家事に忙殺されていたり人付き合いに追われていたりすることもあるであろうし、他の人の多忙については無能が原因とは限らない。私には多くの人は無能でないように見える。
私が多忙を嫌うのは、多忙であると心を静かに保つことが困難になり、物事の道理を見にくくなったり大事なことを忘れてしまったりするからである。
多忙とは混乱の一種であると思う。行政との遣り取りや生業の業務等を特段たくさん抱えていなくても、人間関係や種々の悩み事等、人生における諸問題のために頭の中が常に忙しい人はいる。それらは行政との遣り取りや生業の業務よりも片付けるのが難しいことがしばしばである。業務に追われていると自分の生業の意義が見えなくなってくるのと同様、人生における諸問題に忙しい人は自身の生きることに意味を見出だせなくなることもありそうである。
混乱には本質を損なう力が備わることがある。
そういうわけで私は自分の心を静かにする術を探っている。なるべく混乱したくないし、欲望に突き動かされたくないし、疲弊してしまいたくない。やりたいことは他にもあるからあまり多忙にしていたくない。しかしその術は見えない。
自分の心を静かにすることもこれほど難しいので、私のものと呼べるものはこの世におよそ無いのではないだろうか。
多忙になってくるとその時に抱えている用事のことで頭はいっぱいになってくるもので、家事もおろそかになれば人付き合いも希薄になる。これは私の事情なので他の人は家事に忙殺されていたり人付き合いに追われていたりすることもあるであろうし、他の人の多忙については無能が原因とは限らない。私には多くの人は無能でないように見える。
私が多忙を嫌うのは、多忙であると心を静かに保つことが困難になり、物事の道理を見にくくなったり大事なことを忘れてしまったりするからである。
多忙とは混乱の一種であると思う。行政との遣り取りや生業の業務等を特段たくさん抱えていなくても、人間関係や種々の悩み事等、人生における諸問題のために頭の中が常に忙しい人はいる。それらは行政との遣り取りや生業の業務よりも片付けるのが難しいことがしばしばである。業務に追われていると自分の生業の意義が見えなくなってくるのと同様、人生における諸問題に忙しい人は自身の生きることに意味を見出だせなくなることもありそうである。
混乱には本質を損なう力が備わることがある。
そういうわけで私は自分の心を静かにする術を探っている。なるべく混乱したくないし、欲望に突き動かされたくないし、疲弊してしまいたくない。やりたいことは他にもあるからあまり多忙にしていたくない。しかしその術は見えない。
自分の心を静かにすることもこれほど難しいので、私のものと呼べるものはこの世におよそ無いのではないだろうか。
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