ひろひろ48 さんの日記
2022
1月
23
(日)
17:12
本文
うる覚えなのですが、年末かの討論番組で「国富論」(1776年)くらいでしか知らなかったアダム・スミス、資本主義を推し進めた経済学者のように見えてたが、実は、経済学者(そのころはそういうものがなかった?)でなく、哲学者で、国富論に先立って「道徳感情論」(1759年)という本を出していた。で、国富論でも、弱肉強食、欲望の資本主義を認めていたのではないそうです。
先週かな、新聞の書評「栗原裕一郎さんの3冊の本棚」から一部紹介:
「経済=男」への抵抗
アダム・スミスは「見えざる手」を発見したことで経済学者の父となった。いわく、食卓にパンやステーキが並ぶのはパン屋や肉屋の善意ではない、彼らが利己的に利益を追い求めた結果なのだ。
「ちなみにそのステーキ、誰が焼いたんですか?」と、カトリーン・マルサル「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(河出新社)は水を差す。
スミスは終生独身だった。面倒を見、支えたのは母と従姉妹だった。彼を始祖とする経済学はしかし、母や従姉妹がしてくれた家事やケアなど女性の労働を理論から追い出した。数字に表れないからと経済モデルに組み込まれなかったのである。
この欠陥は経済学が前提とする合理的「経済人」に原因があると睨んだマルサルは、経済人は「男」だと指弾し、近代経済学をバッサバッサと切っていく。
マルサルの批判はフェミニスト経済学を踏襲している。近代経済学はほぼ全否定に近い叩かれっぷりだ。傾聴すべき批判もあるものの、経済人は「人の身体や感情や依存や複雑さから全力で逃げ出すための道具である」とまで言い出すのは、非科学的でちょっと悪乗りかな。
近代経済学がジェンダー不平等をはらんだ原因の一つは、世帯が単位だったからだ。夫に従属する妻という構図がこの単位には潜んでいた。
<一部引用以上>
う~~ん、栗原さん、この本を取り上げて、書評を書いてくれたのはいいけど、「世帯が単位」だったからは、不十分で、ジェンダー不平等は、経済学だけではなく、もっと根強いきがする。だいたい「家事やケアなど女性の労働」と言うところが、悲しい。その時代として、女性に押し付けたのだ。いまも、適性もあるかもだけど、介護ホームや保育園での労働を女性だからと低賃金を押し付けているのは、誰だろう?国のいろんな政策、予算にもジェンダー不平等があるのでは?育児、教育も、選択的夫婦別姓もそうだし。
先週かな、新聞の書評「栗原裕一郎さんの3冊の本棚」から一部紹介:
「経済=男」への抵抗
アダム・スミスは「見えざる手」を発見したことで経済学者の父となった。いわく、食卓にパンやステーキが並ぶのはパン屋や肉屋の善意ではない、彼らが利己的に利益を追い求めた結果なのだ。
「ちなみにそのステーキ、誰が焼いたんですか?」と、カトリーン・マルサル「アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?」(河出新社)は水を差す。
スミスは終生独身だった。面倒を見、支えたのは母と従姉妹だった。彼を始祖とする経済学はしかし、母や従姉妹がしてくれた家事やケアなど女性の労働を理論から追い出した。数字に表れないからと経済モデルに組み込まれなかったのである。
この欠陥は経済学が前提とする合理的「経済人」に原因があると睨んだマルサルは、経済人は「男」だと指弾し、近代経済学をバッサバッサと切っていく。
マルサルの批判はフェミニスト経済学を踏襲している。近代経済学はほぼ全否定に近い叩かれっぷりだ。傾聴すべき批判もあるものの、経済人は「人の身体や感情や依存や複雑さから全力で逃げ出すための道具である」とまで言い出すのは、非科学的でちょっと悪乗りかな。
近代経済学がジェンダー不平等をはらんだ原因の一つは、世帯が単位だったからだ。夫に従属する妻という構図がこの単位には潜んでいた。
<一部引用以上>
う~~ん、栗原さん、この本を取り上げて、書評を書いてくれたのはいいけど、「世帯が単位」だったからは、不十分で、ジェンダー不平等は、経済学だけではなく、もっと根強いきがする。だいたい「家事やケアなど女性の労働」と言うところが、悲しい。その時代として、女性に押し付けたのだ。いまも、適性もあるかもだけど、介護ホームや保育園での労働を女性だからと低賃金を押し付けているのは、誰だろう?国のいろんな政策、予算にもジェンダー不平等があるのでは?育児、教育も、選択的夫婦別姓もそうだし。
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