ひろひろ48 さんの日記
2022
1月
9
(日)
16:46
本文
報道やオリンピックなどの影響もありSDGsがよく知られるようになってきています。日本でも自治体で同性婚を認めるところも出てきています。好きなもの同士が一緒に住み生計を共にするのは当たり前のことです。LGBって、人間が動物であるかぎりある確率であり得るのです。
昨日だったか、報道番組の特集だったか、深刻な問題は、子どもたちの性別違和(以前は性同一性障害と呼ばれていました)です。番組では、アメリカの情報で、性別違和の子どもたちは深刻なストレスがあり、確か8割が自殺を考え、その半分が実際に自殺を試みると。
子どもたちは、年中、年長さんくらいから小学校低学年で自分は男じゃない、女じゃないと感じ強制により強いストレスを感じます。さらに周りの子どもたちからのいじめで二重三重の深刻な状態に置かれます。SDGsの関連で、文科省は小学校からその対応の通達がしているが、その前の保育園、幼稚園では適用外になっています。
対応してくれる学校、教師があるところではいいのですが、、子どもたち、その親たちが辛い状態です。
偶然か、今朝の新聞の社説でこのことが論じられてましたので紹介します:
昨年十月のことです。米国政府は初めて性別欄に「X」と記した旅券を発行しました。M(男性)でなく、F(女性)でもなく、X(不特定)。自らを男性でも女性でもないと考える人のためでした。
受け取ったのは、元米兵で男女双方の身体的特徴のある「インターセックス」の活動家でした。
このニュースは日本でも報じられましたが、首をかしげる表現がありました。「LGBTQ旅券」がそれです。少なくともL(レズビアン、女性同性愛者)、G(ゲイ、男性同性愛者)、B(バイセクシュアル、両性愛者)は生来の性別に違和のない人です。つまり、この旅券は必要ありません。
男女の異性愛者以外は性的少数者でLGBT(Q)。そう考えたのでしょう。多様性という言葉とともに、メディアも企業もLGBT(Q)ばやりです。差別解消の追い風としては評価したい。
◆「らしさ」への回収
「でも、ちょっと…」という小さな声が当事者から漏れ始めています。社会のイメージと当事者の生の感情に摩擦があるのです。
例えば、同性婚。同性愛者全てが待ち望んでいると思われがちですが、一部の人は異なります。
ある五十代の女性同性愛者はもろ手を挙げて賛成はできないと話します。なぜか。事実婚の不利益や婚外子差別の現実から、現行の婚姻制度そのものに疑問を抱いているからです。「同性婚の承認がそうした人びとへの圧力になりかねない」と不安を隠しません。
生まれながらの性と異なる性で生きるトランスジェンダーの人びとは一定の条件が整えば、戸籍の性別変更が可能です。しかし、それを望まない当事者もいます。
女性への性別適合手術を受けたタレントの一人は戸籍名も変えていません。男性時代の過去があるから、いまの自分があり、その過去を消したくないと話します。
当事者は十人十色。しかし、社会はLGBT(Q)でくくりたがる。「男らしさ」「女らしさ」の枠から解き放たれて生きようとしてきたのに、待っていたのは「LGBTらしさ」。多数派と異なる個性が新たな「らしさ」の枠に回収されかねないと、一部の当事者は危機感を抱いているのです。
こうした枠の乱立は性に限った話ではありません。人種、民族、宗教でも枠を設け、壁を築く傾向が世界各地で強まっています。
たしかに差別されている集団がその解消のために、力を合わせることは重要です。でも、それ以上に枠が排他性を帯び、社会の分断を招くケースが目立ちます。
人の性向を枠ではなく、個性として捉えられないものか。この問いを重視したいのは、それが専制(権威)主義の台頭と民主主義の危機という現代の焦点と密接に絡んでいるためです。というのも、専制主義は枠やそれが築く壁ととても相性がよいからです。
専制主義は中国やロシアに限りません。移民排斥に傾く欧米社会でも、その傾向がうかがえます。
なぜ、枠や壁を築こうとするのか。人びとの孤立が根底にはあります。原因として新自由主義政策による競争激化と格差の拡大、ネット社会に特有な議論の欠如、コロナ禍による人と人の接触機会の減少などが考えられます。いずれにせよ、孤立し、不安に陥った人びとは帰属への欲求を高め、それが専制主義を呼び込みます。
◆民主主義に魂込める
そうした悪弊に民主主義は対抗できるのか。民主主義がただの多数決でしかないのなら、難しそうです。あのナチス・ドイツも民主的なワイマール憲法下で生まれました。日本に色濃い同調圧力も多数決とは別次元で働きます。
そうである以上、ただのシステムではなく、民主主義に魂を込めねばなりません。その精神とは、個人の尊重と誰もが参加する議論による共同性の練り上げです。
属性より個人。枠ではなく、個性にこだわる意味はそこにあります。そして議論の活性化は孤立を防ぐ手だてにもなるはずです。
善意であれ、枠を作って相手を「理解した気になること」は、相手にとっては「勝手に理解されてしまう」ことでしかない。「LGBTQ旅券」はその一例です。それは個人を否定しかねません。
個性を切り捨てないこと。お互いに一人の人間として対面すること。専制主義の誘惑を排するためにも「らしさ」より個性という視点を大切にしたいと思うのです。
昨日だったか、報道番組の特集だったか、深刻な問題は、子どもたちの性別違和(以前は性同一性障害と呼ばれていました)です。番組では、アメリカの情報で、性別違和の子どもたちは深刻なストレスがあり、確か8割が自殺を考え、その半分が実際に自殺を試みると。
子どもたちは、年中、年長さんくらいから小学校低学年で自分は男じゃない、女じゃないと感じ強制により強いストレスを感じます。さらに周りの子どもたちからのいじめで二重三重の深刻な状態に置かれます。SDGsの関連で、文科省は小学校からその対応の通達がしているが、その前の保育園、幼稚園では適用外になっています。
対応してくれる学校、教師があるところではいいのですが、、子どもたち、その親たちが辛い状態です。
偶然か、今朝の新聞の社説でこのことが論じられてましたので紹介します:
昨年十月のことです。米国政府は初めて性別欄に「X」と記した旅券を発行しました。M(男性)でなく、F(女性)でもなく、X(不特定)。自らを男性でも女性でもないと考える人のためでした。
受け取ったのは、元米兵で男女双方の身体的特徴のある「インターセックス」の活動家でした。
このニュースは日本でも報じられましたが、首をかしげる表現がありました。「LGBTQ旅券」がそれです。少なくともL(レズビアン、女性同性愛者)、G(ゲイ、男性同性愛者)、B(バイセクシュアル、両性愛者)は生来の性別に違和のない人です。つまり、この旅券は必要ありません。
男女の異性愛者以外は性的少数者でLGBT(Q)。そう考えたのでしょう。多様性という言葉とともに、メディアも企業もLGBT(Q)ばやりです。差別解消の追い風としては評価したい。
◆「らしさ」への回収
「でも、ちょっと…」という小さな声が当事者から漏れ始めています。社会のイメージと当事者の生の感情に摩擦があるのです。
例えば、同性婚。同性愛者全てが待ち望んでいると思われがちですが、一部の人は異なります。
ある五十代の女性同性愛者はもろ手を挙げて賛成はできないと話します。なぜか。事実婚の不利益や婚外子差別の現実から、現行の婚姻制度そのものに疑問を抱いているからです。「同性婚の承認がそうした人びとへの圧力になりかねない」と不安を隠しません。
生まれながらの性と異なる性で生きるトランスジェンダーの人びとは一定の条件が整えば、戸籍の性別変更が可能です。しかし、それを望まない当事者もいます。
女性への性別適合手術を受けたタレントの一人は戸籍名も変えていません。男性時代の過去があるから、いまの自分があり、その過去を消したくないと話します。
当事者は十人十色。しかし、社会はLGBT(Q)でくくりたがる。「男らしさ」「女らしさ」の枠から解き放たれて生きようとしてきたのに、待っていたのは「LGBTらしさ」。多数派と異なる個性が新たな「らしさ」の枠に回収されかねないと、一部の当事者は危機感を抱いているのです。
こうした枠の乱立は性に限った話ではありません。人種、民族、宗教でも枠を設け、壁を築く傾向が世界各地で強まっています。
たしかに差別されている集団がその解消のために、力を合わせることは重要です。でも、それ以上に枠が排他性を帯び、社会の分断を招くケースが目立ちます。
人の性向を枠ではなく、個性として捉えられないものか。この問いを重視したいのは、それが専制(権威)主義の台頭と民主主義の危機という現代の焦点と密接に絡んでいるためです。というのも、専制主義は枠やそれが築く壁ととても相性がよいからです。
専制主義は中国やロシアに限りません。移民排斥に傾く欧米社会でも、その傾向がうかがえます。
なぜ、枠や壁を築こうとするのか。人びとの孤立が根底にはあります。原因として新自由主義政策による競争激化と格差の拡大、ネット社会に特有な議論の欠如、コロナ禍による人と人の接触機会の減少などが考えられます。いずれにせよ、孤立し、不安に陥った人びとは帰属への欲求を高め、それが専制主義を呼び込みます。
◆民主主義に魂込める
そうした悪弊に民主主義は対抗できるのか。民主主義がただの多数決でしかないのなら、難しそうです。あのナチス・ドイツも民主的なワイマール憲法下で生まれました。日本に色濃い同調圧力も多数決とは別次元で働きます。
そうである以上、ただのシステムではなく、民主主義に魂を込めねばなりません。その精神とは、個人の尊重と誰もが参加する議論による共同性の練り上げです。
属性より個人。枠ではなく、個性にこだわる意味はそこにあります。そして議論の活性化は孤立を防ぐ手だてにもなるはずです。
善意であれ、枠を作って相手を「理解した気になること」は、相手にとっては「勝手に理解されてしまう」ことでしかない。「LGBTQ旅券」はその一例です。それは個人を否定しかねません。
個性を切り捨てないこと。お互いに一人の人間として対面すること。専制主義の誘惑を排するためにも「らしさ」より個性という視点を大切にしたいと思うのです。
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