freescaleII さんの日記
2021
12月
16
(木)
07:00
本文
外国兵を呼ぶばあいにニックネームを付ける事が有る。
身近では「ヤンキー」や「ジャップ」が有る。
ロシアはロスケ(助)、なんとなくピッタリする。
ここドイツではイギリス兵を「トミー」と呼んでいた。
ドイツでは「イワンが来るぞ!」というのは「ロシア兵が攻め込んで来るぞ!」という意味だ。
何故イワンなのかというと「ロシア帝国のIwan IV. der Schreckliche」のことで「イワァン雷帝」を指す。
「Schrecklich」は怖い、酷い、 惨澹 、凄まじい、とか言う意味だ。
Iwan IV は強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治を行ったところから来ている。
ここではウクライナの、現在必死に悲願であった主権と自由を守ろうとしているウクライナ民族の悲劇的歴史のことだ。
ソビエト連邦が崩壊し、西独との国境にズラリと並んだ戦車部隊がようやく撤退し、多額のお金を差し上げてお引き取り願ったソビエト軍、今はロシア軍というが、その後着々と軍備拡張し、現在は独立したが、過去に侵略併合した国を又奪い返そうと虎視眈々と機会を伺っている。ロシア軍は今や数だけでなく、西側の技術を吸収しその質も格段に向上した。
そして今ウクライナとの国境に大軍を集結して恫喝をしている。
これは2014年にウクライナのクリミヤ半島をまんまと奪い取ったのに味をしめて今度はウクライナ本体そのものが二匹目のどじょうだ。
https://japan.mfa.gov.ua/ja/news/62845-10-faktiv-pro-zbrojnu-agresiju-rosiji-proti-ukrajini
ウクライナとしては藁をもすがる思いでEUとNATOに頼るしかない。
しかしEUは経済制裁しか出来ないけれども、もしも天然ガスの供給を止められたらイチコロだ。今のNATOの軍事力は緊張緩和後の軍縮で見るかげも無い。
ここでウクライナの歴史だ。
「17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後はロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことでソビエト連邦内の構成国となった。1991年のソビエト連邦の崩壊に伴いようやく悲願であった現在のウクライナ国家が成立した。 」
「1922年12月30日にウクライナ社会主義共和国は、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。
1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年、1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ、カナダ、イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されているが、国際連合や欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられた結果、ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった。
大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。
一方、西ウクライナはポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニ・ハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。 」
話は変わるが、私が昔勤めていた会社にトルコ人の同僚がいた。
或る日彼が私に聞いて来た。おまえは「アドミラル トーゴー」を知っているかと。
そりゃあ少なくとも日本史を習った以上東郷元帥の名前は知っている。
トルコでは学校の教科書にも載っているくらい有名な英雄だと教えてくれた。
「ロシア時代からソビエト時代を通して侵略され蹂躙されて来た近隣諸国の人々は皆知っている。憎きロシアを叩きのめしてくれた東洋の小国日本の英雄だ」
そういえばフインランド人のロシアに対する憎しみと恐怖心は特筆すべきである。フィンランドの過酷な歴史、即ち、隣国大国ソ連に領土を占領、蹂躙され、そして奪還するためにソ連と戦った過去が有る。
フランスとソ連は1935年に仏ソ相互援助条約を締結し、事実上の同盟関係となった。このフランスとソ連の接近で二正面作戦を強いられることがドイツでは懸念された。
しかし、1939年にドイツとソビエト連邦の間に不可侵条約が締結された。
天敵と言われたアドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンが手を結んだ。
ソ連はドイツと英仏を両天秤にかけていたということである。どちらに転んでも良いように。
これは日ソ不可侵条約でも起きている。
「ソ連側は、関東軍特種演習(通称:関特演)による日本の背信行為によって既に条約は日本側により破棄されたという見解を示していた。
しかしヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決定した後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年間は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めている。」
とう具合に、あの国とはそういう油断も隙も無い国である。
「ソ連は独ソ戦開始前には東欧に勢力を伸ばし、抵抗者を抹殺していた。1940年の「カチンの森」事件は有名だ。捕虜としたポーランド将校を大量抹殺。したがってナチスドイツによる対ソ戦開始は、ソ連の影響下にあった東欧では歓迎された。ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど、対ソ戦ではドイツ側になって参戦した国も多い。戦後、ソ連が東欧諸国を徹底的に属国化したのには、そうした事情も絡むのだろう。」
欧州の歴史は長くて深い。偏った思想的価値観と歴史観で見ると皮相的で間違った知識しか得られない。ソビエト共産党日本支部(代々木)の描いた歴史などまったくの出鱈目だ。
歴史とはそのまま鵜呑みに出来ない事が沢山有る。そして特定の政治団体は都合の良いように事実を捻じ曲げてしまう。
身近では「ヤンキー」や「ジャップ」が有る。
ロシアはロスケ(助)、なんとなくピッタリする。
ここドイツではイギリス兵を「トミー」と呼んでいた。
ドイツでは「イワンが来るぞ!」というのは「ロシア兵が攻め込んで来るぞ!」という意味だ。
何故イワンなのかというと「ロシア帝国のIwan IV. der Schreckliche」のことで「イワァン雷帝」を指す。
「Schrecklich」は怖い、酷い、 惨澹 、凄まじい、とか言う意味だ。
Iwan IV は強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治を行ったところから来ている。
ここではウクライナの、現在必死に悲願であった主権と自由を守ろうとしているウクライナ民族の悲劇的歴史のことだ。
ソビエト連邦が崩壊し、西独との国境にズラリと並んだ戦車部隊がようやく撤退し、多額のお金を差し上げてお引き取り願ったソビエト軍、今はロシア軍というが、その後着々と軍備拡張し、現在は独立したが、過去に侵略併合した国を又奪い返そうと虎視眈々と機会を伺っている。ロシア軍は今や数だけでなく、西側の技術を吸収しその質も格段に向上した。
そして今ウクライナとの国境に大軍を集結して恫喝をしている。
これは2014年にウクライナのクリミヤ半島をまんまと奪い取ったのに味をしめて今度はウクライナ本体そのものが二匹目のどじょうだ。
https://japan.mfa.gov.ua/ja/news/62845-10-faktiv-pro-zbrojnu-agresiju-rosiji-proti-ukrajini
ウクライナとしては藁をもすがる思いでEUとNATOに頼るしかない。
しかしEUは経済制裁しか出来ないけれども、もしも天然ガスの供給を止められたらイチコロだ。今のNATOの軍事力は緊張緩和後の軍縮で見るかげも無い。
ここでウクライナの歴史だ。
「17世紀から18世紀の間にはウクライナ・コサックの国家が興亡し、その後はロシア帝国の支配下に入った。第一次世界大戦後に独立を宣言するも、ロシア内戦を赤軍が制したことでソビエト連邦内の構成国となった。1991年のソビエト連邦の崩壊に伴いようやく悲願であった現在のウクライナ国家が成立した。 」
「1922年12月30日にウクライナ社会主義共和国は、ロシア、ベラルーシ、ザカフカースとともに同盟条約によってソビエト連邦を結成した。諸共和国は平等の立場で新しい国家連合を形成したが、その国家連合はソ連憲法制定によってロシアを中心とする中央集権的なシステムに変遷し、その他の独立共和国はロシアの自治共和国となった。
1923年から1933年にかけて、ウクライナでのソビエト政権を磐石なものにするために、ソ連政府・共産党はウクライナ化政策を実行した。ウクライナ語教育の普及や政府諸機関へのウクライナ人の採用などにより、政権とウクライナ人の間に存在した敵意をなくそうという試みであった。しかし、1930年以降、党内からこの政策を厳しく批判する声が上がり、1933年にウクライナ化は「ウクライナ民族主義的偏向」として中止された。ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は逮捕・粛清され、ロシア化の時代が再開した。
ソビエト連邦下のウクライナは拙速な農業の集団化政策などにより2度の大飢饉(1921年 - 1922年、1932年 - 1933年、後者はホロドモールと呼ばれ2006年にウクライナ政府によってウクライナ人に対するジェノサイドと認定された。アメリカ、カナダ、イタリアなどの欧米諸国では正式にジェノサイドであると認定されているが、国際連合や欧州議会では人道に対する罪として認定している)に見舞われ、推定で400万から1000万人が命を落とした。この「拙速な集団化政策」は意図してなされたものであるという説も有力である。
この背景には、レーニンやスターリンらによる農民への敵視政策があった。共産党政府のとった土地の共有化を農民は拒むため、多くの住民が農民であったウクライナの統治は共産党政府にとって大きな障壁となっていた。そのため、一説によるとレーニン、スターリンらにとってはウクライナの農民の根絶が理想であったともされている。スターリンは、農民問題の解決は至急の課題であると明言している。また、この時期に前後し、ウクライナでは農民、すなわちウクライナ人への懐柔政策と弾圧政策が交互にとられた結果、ウクライナ共産党幹部全員をはじめ多くの人間が粛清された。最終的には、ウクライナ語使用の制限など弾圧政策が長くとられることになった。
大粛清はウクライナから始められ、1937年には首相のパナース・リューブチェンコが自殺した。この年、ウクライナ社会主義ソビエト共和国は国号を「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」へと変更した。
一方、西ウクライナはポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアによって分割された。1921年から1939年にかけてポーランドはヴォルィーニ・ハルィチナー地方、ルーマニアはブコビナ地方、チェコスロバキアはザカルパッチャを支配した。 」
話は変わるが、私が昔勤めていた会社にトルコ人の同僚がいた。
或る日彼が私に聞いて来た。おまえは「アドミラル トーゴー」を知っているかと。
そりゃあ少なくとも日本史を習った以上東郷元帥の名前は知っている。
トルコでは学校の教科書にも載っているくらい有名な英雄だと教えてくれた。
「ロシア時代からソビエト時代を通して侵略され蹂躙されて来た近隣諸国の人々は皆知っている。憎きロシアを叩きのめしてくれた東洋の小国日本の英雄だ」
そういえばフインランド人のロシアに対する憎しみと恐怖心は特筆すべきである。フィンランドの過酷な歴史、即ち、隣国大国ソ連に領土を占領、蹂躙され、そして奪還するためにソ連と戦った過去が有る。
フランスとソ連は1935年に仏ソ相互援助条約を締結し、事実上の同盟関係となった。このフランスとソ連の接近で二正面作戦を強いられることがドイツでは懸念された。
しかし、1939年にドイツとソビエト連邦の間に不可侵条約が締結された。
天敵と言われたアドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンが手を結んだ。
ソ連はドイツと英仏を両天秤にかけていたということである。どちらに転んでも良いように。
これは日ソ不可侵条約でも起きている。
「ソ連側は、関東軍特種演習(通称:関特演)による日本の背信行為によって既に条約は日本側により破棄されたという見解を示していた。
しかしヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決定した後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年間は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めている。」
とう具合に、あの国とはそういう油断も隙も無い国である。
「ソ連は独ソ戦開始前には東欧に勢力を伸ばし、抵抗者を抹殺していた。1940年の「カチンの森」事件は有名だ。捕虜としたポーランド将校を大量抹殺。したがってナチスドイツによる対ソ戦開始は、ソ連の影響下にあった東欧では歓迎された。ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど、対ソ戦ではドイツ側になって参戦した国も多い。戦後、ソ連が東欧諸国を徹底的に属国化したのには、そうした事情も絡むのだろう。」
欧州の歴史は長くて深い。偏った思想的価値観と歴史観で見ると皮相的で間違った知識しか得られない。ソビエト共産党日本支部(代々木)の描いた歴史などまったくの出鱈目だ。
歴史とはそのまま鵜呑みに出来ない事が沢山有る。そして特定の政治団体は都合の良いように事実を捻じ曲げてしまう。
閲覧(1604)
カテゴリー | ||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |