freescaleII さんの日記
2021
12月
11
(土)
08:59
本文
以前この映画を紹介したような、それとも誰か他の人のブログだったのかも知れないが、ここに洗練された解説を見つけた。
https://blog.goo.ne.jp/19mita29/e/78f0f674f0534f96df24f66b1bb60344?fm=entry_awp_sleep
解説に出て来る「ヴォルヴィッツはシュピーゲル誌内の協力者から原稿のコピーを入手していた。」
このシュピーゲル誌というのは丁度日本の朝日ジャーナルのようなものです。そこにも東独のスパイが入り込んでいたのです。
もっともビリー・ブラント政権もその秘書が東独スパイであったのが発覚し、首相を辞任しましたが。
つまり「東西ドイツ基本条約」は一方的に手の内を知られたまま結ばれた条約だったという事です。
映画『善き人のためのソナタ』の字幕版があるようですが、ありゃ!はじめの方しか無い。
私が初めて脱東独者と知り合ったのは1973年のベルリンだったと記憶している。
彼は脱東独の地下組織に金を払い、偽造された西独のパスポートを受け取りハンガリー経由で脱出を成功させた。
彼の職業は医師で、発覚したら社会主義の敵として裁判もなく秘密裏に処分(死刑)されていた筈だ。
その後私は西側のハノーファーという地に住み、その時に知り合った友人は、東ドイツに居た頃再教育という名目の拷問、洗脳を受けた。素直に悔悛せず絶対的タブーの「マルクス主義批判」を止めない彼は、朝から晩まで水の張られた水槽に太ももまで浸かり立たされたそうだ。
やがてその社会主義経済が行き詰まり窮乏を極めていた東独政府から、西側の人道的金銭代償と引き換えに引き渡された。
その後彼は西独政府の支援により獣医となった。
それが無ければ彼は獄中で原因不明の病死となっていた筈だ。
本当に生と死の分かれ道を彷徨ったわけだ。
その後、独裁社会主義政権が崩壊し、ようやく東にも平和と自由がもたらされた。
やがて前嫁と離婚した私が知り合ったのが東独出身の女性教師だった。
彼女が前夫と離婚した理由は、シュタージにスパイ活動を要求されたものの拒否した為に強制離婚させられたからだ。
博士課程を目指したけれども許可されなかった。もちろんスパイ協力するなら許されたそうだ。
特に前夫はシュタージの将校で、その妻が協力を拒否すればどういう事になるかは想像がつくと思うけど。
さすがに将校の妻だっただけに、沢山の知識を私にもたらせてくれた。
彼ら高級官僚達は、もう国家の破綻についておおよその予想はしていたそうだ。
このままでは成り立たなくなると。
それほどまでにマルクス主義的計画経済システム(彼らはそう呼んでいた)は行き詰っていたそうだ。
それでも彼ら高級官僚は別格の物質的な好待遇を受けていたそうだ。たとえ国民が窮乏していてもだ。でなければ官僚の国家への忠誠が得られないからだ。
恒久的な革命を謳う体制が、新たな革命を恐れるというなんとも滑稽な状況だった。
統一後、シュタージによる自分自身の調査記録を当人に限って見る事が許されているが、彼女に聞いたら自分は見たくない、何故なら「どれだけの、そして誰が私を密告したスパイだったかを知るのが怖い」からだそうです。
「おそらくその中には親友の名も有るかも知れないから」と。
私が東に越してきて、最初は高年齢層が少しぎこちなく感じたが、徐々に心を開いて来た。ザクセン訛りは閉口したが、色々昔話をしてくれた。
一つだけ気が付いたのだが、昔の彼女の配偶者がシュタージの将校だったという話をしたら、皆押し黙ってしまった。
彼らにとってあまり触れたくない話題らしい。なにしろ「非公式協力員」という密告制度が有ったから。
もしかすると彼らの中にも心当たりが有るのかも知れない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E5%8D%94%E5%8A%9B%E8%80%85
皮肉なことに社会主義国家では、その社会主義経済が失敗したのに、自由主義経済国家の社会保障制度の方は遥かに進歩していた。
戦没者慰霊施設での衛兵交代ですが、私は1973年に実際に見ました。その頃は観光者として一日だけ東ベルリンに入ることが出来ました。
中の壁には「ファッシズムと軍国主義に対して」と書かれてありましたが、自分達社会主義独裁政権がそのファッシストであり軍国主義者そのものになっていたのには最後まで気が付かなかった。全体主義の恐ろしさです。
現実には無知で愚かな戦後日本のお花畑学生達が、そのような暗黒社会だとは知らずに革命の言葉に溺れ夢見て大暴れした。詭弁ともいえる理論を触りまわしてだ。おまけに仲間同士の粛清までして殺し合った時代だった。
幸いだったのは、日本社会がそんな暴力革命などを必要とせず、ヒットラー、スターリン、毛沢東等のような独裁者による言論統制、粛清そして大虐殺という地獄に引きずり込まれなかったことだ。
スターリン「気に入らないやつは取りあえず殺しておけ!」
その「プロレタリアート革命ごっこ」をした連中も今はすっかり歳を取り、プチ・ブルジョアとなり下がっている。
知り合いで日本人の若い男性は、彼の父親もその大暴れしたうちの一人で、ハーレイ・ダビッドソンを乗り回し、老後は思い切り資本主義をエンジョイしていたそうだ。
やりきれないのは、その中に粛清という殺人を犯したものが、何食わぬ顔でいる筈だから。
それから火焔瓶で焼かれて黒焦げになって死んでいった警察官、過激派集団に襲われて撲殺された警察官。国の為に体を張って死んでいった人達だが、今は国民の誰がその死と家族の悲しみを思い出すだろうね。
ここにも映画『善き人のためのソナタ』の良い解説が。
https://myboyfriendisgermanpoliceman.com/movie-music/germanmovies-8/
主役のウルリッヒ・ミューエは既に亡くなっておりますが、ここザクセン州の出身です。
若い頃ユーゴ・スラビアへ行った事が有ります。社会主義国家ながら外国人がヒッチで通過する事を許されていました。そのままギリシャへ向かっていましたが、途中フォルクス・ワーゲンのデイーラーをやってると言う人が乗せてくれました。
この点を取っても大分開かれた感じがしましたが、途中で休んで珈琲を飲みました。その時にチトー大統領について聞きました。ところが急に顔色を変え、指で私に「シーッ」と話すなの合図をして辺りを確認していました。
そして「ここでは政治の話は一切してはいけないよ」と言いました。
壁に耳有り障子に目ありの全体主義はどっこい健在でした。
https://blog.goo.ne.jp/19mita29/e/78f0f674f0534f96df24f66b1bb60344?fm=entry_awp_sleep
解説に出て来る「ヴォルヴィッツはシュピーゲル誌内の協力者から原稿のコピーを入手していた。」
このシュピーゲル誌というのは丁度日本の朝日ジャーナルのようなものです。そこにも東独のスパイが入り込んでいたのです。
もっともビリー・ブラント政権もその秘書が東独スパイであったのが発覚し、首相を辞任しましたが。
つまり「東西ドイツ基本条約」は一方的に手の内を知られたまま結ばれた条約だったという事です。
映画『善き人のためのソナタ』の字幕版があるようですが、ありゃ!はじめの方しか無い。
私が初めて脱東独者と知り合ったのは1973年のベルリンだったと記憶している。
彼は脱東独の地下組織に金を払い、偽造された西独のパスポートを受け取りハンガリー経由で脱出を成功させた。
彼の職業は医師で、発覚したら社会主義の敵として裁判もなく秘密裏に処分(死刑)されていた筈だ。
その後私は西側のハノーファーという地に住み、その時に知り合った友人は、東ドイツに居た頃再教育という名目の拷問、洗脳を受けた。素直に悔悛せず絶対的タブーの「マルクス主義批判」を止めない彼は、朝から晩まで水の張られた水槽に太ももまで浸かり立たされたそうだ。
やがてその社会主義経済が行き詰まり窮乏を極めていた東独政府から、西側の人道的金銭代償と引き換えに引き渡された。
その後彼は西独政府の支援により獣医となった。
それが無ければ彼は獄中で原因不明の病死となっていた筈だ。
本当に生と死の分かれ道を彷徨ったわけだ。
その後、独裁社会主義政権が崩壊し、ようやく東にも平和と自由がもたらされた。
やがて前嫁と離婚した私が知り合ったのが東独出身の女性教師だった。
彼女が前夫と離婚した理由は、シュタージにスパイ活動を要求されたものの拒否した為に強制離婚させられたからだ。
博士課程を目指したけれども許可されなかった。もちろんスパイ協力するなら許されたそうだ。
特に前夫はシュタージの将校で、その妻が協力を拒否すればどういう事になるかは想像がつくと思うけど。
さすがに将校の妻だっただけに、沢山の知識を私にもたらせてくれた。
彼ら高級官僚達は、もう国家の破綻についておおよその予想はしていたそうだ。
このままでは成り立たなくなると。
それほどまでにマルクス主義的計画経済システム(彼らはそう呼んでいた)は行き詰っていたそうだ。
それでも彼ら高級官僚は別格の物質的な好待遇を受けていたそうだ。たとえ国民が窮乏していてもだ。でなければ官僚の国家への忠誠が得られないからだ。
恒久的な革命を謳う体制が、新たな革命を恐れるというなんとも滑稽な状況だった。
統一後、シュタージによる自分自身の調査記録を当人に限って見る事が許されているが、彼女に聞いたら自分は見たくない、何故なら「どれだけの、そして誰が私を密告したスパイだったかを知るのが怖い」からだそうです。
「おそらくその中には親友の名も有るかも知れないから」と。
私が東に越してきて、最初は高年齢層が少しぎこちなく感じたが、徐々に心を開いて来た。ザクセン訛りは閉口したが、色々昔話をしてくれた。
一つだけ気が付いたのだが、昔の彼女の配偶者がシュタージの将校だったという話をしたら、皆押し黙ってしまった。
彼らにとってあまり触れたくない話題らしい。なにしろ「非公式協力員」という密告制度が有ったから。
もしかすると彼らの中にも心当たりが有るのかも知れない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E5%85%AC%E5%BC%8F%E5%8D%94%E5%8A%9B%E8%80%85
皮肉なことに社会主義国家では、その社会主義経済が失敗したのに、自由主義経済国家の社会保障制度の方は遥かに進歩していた。
戦没者慰霊施設での衛兵交代ですが、私は1973年に実際に見ました。その頃は観光者として一日だけ東ベルリンに入ることが出来ました。
中の壁には「ファッシズムと軍国主義に対して」と書かれてありましたが、自分達社会主義独裁政権がそのファッシストであり軍国主義者そのものになっていたのには最後まで気が付かなかった。全体主義の恐ろしさです。
現実には無知で愚かな戦後日本のお花畑学生達が、そのような暗黒社会だとは知らずに革命の言葉に溺れ夢見て大暴れした。詭弁ともいえる理論を触りまわしてだ。おまけに仲間同士の粛清までして殺し合った時代だった。
幸いだったのは、日本社会がそんな暴力革命などを必要とせず、ヒットラー、スターリン、毛沢東等のような独裁者による言論統制、粛清そして大虐殺という地獄に引きずり込まれなかったことだ。
スターリン「気に入らないやつは取りあえず殺しておけ!」
その「プロレタリアート革命ごっこ」をした連中も今はすっかり歳を取り、プチ・ブルジョアとなり下がっている。
知り合いで日本人の若い男性は、彼の父親もその大暴れしたうちの一人で、ハーレイ・ダビッドソンを乗り回し、老後は思い切り資本主義をエンジョイしていたそうだ。
やりきれないのは、その中に粛清という殺人を犯したものが、何食わぬ顔でいる筈だから。
それから火焔瓶で焼かれて黒焦げになって死んでいった警察官、過激派集団に襲われて撲殺された警察官。国の為に体を張って死んでいった人達だが、今は国民の誰がその死と家族の悲しみを思い出すだろうね。
ここにも映画『善き人のためのソナタ』の良い解説が。
https://myboyfriendisgermanpoliceman.com/movie-music/germanmovies-8/
主役のウルリッヒ・ミューエは既に亡くなっておりますが、ここザクセン州の出身です。
若い頃ユーゴ・スラビアへ行った事が有ります。社会主義国家ながら外国人がヒッチで通過する事を許されていました。そのままギリシャへ向かっていましたが、途中フォルクス・ワーゲンのデイーラーをやってると言う人が乗せてくれました。
この点を取っても大分開かれた感じがしましたが、途中で休んで珈琲を飲みました。その時にチトー大統領について聞きました。ところが急に顔色を変え、指で私に「シーッ」と話すなの合図をして辺りを確認していました。
そして「ここでは政治の話は一切してはいけないよ」と言いました。
壁に耳有り障子に目ありの全体主義はどっこい健在でした。
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