freescaleII さんの日記
2021
12月
5
(日)
06:40
本文
偉い人がいたんですね。
東ドイツ社会主義政権が崩壊するまではまったく知りませんでした。
そのころの政権にとってこういう外国人の活躍とかは恥ではあってもイデオロギーの宣伝にはならず、相応しくないとして隠蔽していたのですね。
国籍を超えて、人種を越えて、宗教やイデオロギーをも超えて「感謝の心」を伝えたいという気持ちは大切にしたいですね。
実は私の義母もこの中で語られた避難民のひとりでした。(旧ドイツ領シュレージア地方、現ポーランド領)
ソ連軍侵攻の際に、まだ幼かった長女の手を引いて後の東ドイツにまで避難して来ました。
その後ソビエトにより傀儡政権が樹立されると、更に西側へ避難して来ました。
丁度その頃ですね、肥沼医師がそのまま残り病人の治療、救命をされていたのは。
義母と長女にはろくろく食べるものも無く、着の身着のまま、裸足に近い姿で歩いて西へ辿りついたのだそうです。
シュレージア地方からの避難民はこの辺りにも沢山住んでいますが、とても料理の上手な人達が多いのです。
義母の料理は今でも懐かしいです。
今の難民と違うのは、それがドイツ人同胞だったことです。
無理もないよね、兵士でさえ逃亡したくらいだから。
その後壁や国境を越えて逃亡に失敗した人達は、今の我が住まいの近くにある国家保安警察(シュタージ)の刑務所に送られ、裁判も無くギロチンで首を刎ねられた。(60年代の終わりまで、その後は後頭部を拳銃で射殺)
独裁政権の恐ろしさです。
東ドイツ社会主義政権が崩壊するまではまったく知りませんでした。
そのころの政権にとってこういう外国人の活躍とかは恥ではあってもイデオロギーの宣伝にはならず、相応しくないとして隠蔽していたのですね。
国籍を超えて、人種を越えて、宗教やイデオロギーをも超えて「感謝の心」を伝えたいという気持ちは大切にしたいですね。
実は私の義母もこの中で語られた避難民のひとりでした。(旧ドイツ領シュレージア地方、現ポーランド領)
ソ連軍侵攻の際に、まだ幼かった長女の手を引いて後の東ドイツにまで避難して来ました。
その後ソビエトにより傀儡政権が樹立されると、更に西側へ避難して来ました。
丁度その頃ですね、肥沼医師がそのまま残り病人の治療、救命をされていたのは。
義母と長女にはろくろく食べるものも無く、着の身着のまま、裸足に近い姿で歩いて西へ辿りついたのだそうです。
シュレージア地方からの避難民はこの辺りにも沢山住んでいますが、とても料理の上手な人達が多いのです。
義母の料理は今でも懐かしいです。
今の難民と違うのは、それがドイツ人同胞だったことです。
無理もないよね、兵士でさえ逃亡したくらいだから。
その後壁や国境を越えて逃亡に失敗した人達は、今の我が住まいの近くにある国家保安警察(シュタージ)の刑務所に送られ、裁判も無くギロチンで首を刎ねられた。(60年代の終わりまで、その後は後頭部を拳銃で射殺)
独裁政権の恐ろしさです。
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