tinc さんの日記
2021
10月
5
(火)
05:46
本文
私はいろいろな人から叱責を受けがちである。これにはろくなことをしないことと貧弱であることの2つの要因があると自分では考えている。悪いことをしていても強そうなら怒られないし、別に悪いことをしていなくてもいかにも弱そうだと他人から見れば怒りやすい。
ひとには他人よりも優位に立ちたいという願望があることがある。叱責することにはそれを満たしてくれる行為であることに加えて「自分は正当なことを述べている」と思わせてくれる性質もあるので、叱責の快感に酔う人はいるものであると思う。
例えば私はかつて歩道の狭い道を歩いていた際に、前方から来た自転車に乗った人から「こっちのほうが歳上なんだから譲りなさいよ!」と怒られたことがある。「どっちが歳上かはまだ分からなくないですか」と私が尋ねるとその人は鼻を鳴らして去っていった。
この遣り取りにしても私が立派な人物であれば「妥当な疑問を呈している」と見なされるであろうが、私は立派でないので「余計な口応えをして火に油を注いでいる」と認識され、そうして叱責は別の叱責に繋がる。私に怒る人々は強くて立派で結構なことだが、そういう人々にとって私なんかにかかずらっているのは一種の恥ではないのだろうか。
とにかく頻繁に叱責を受けるので、私は時に今まで受けた叱責について思い返して「あの人は何を思って私を叱責していたのだろう」と想像することがある。例えば私は出張で他地方へ行って各所へ業務の電話をしていた際に、見知らぬ人から「電話ばっかりしてないで地元の人間と話せ!」と怒られたことがあった。この場合叱責は地元への強い愛情から生じている可能性がある。別の例では「この寒いのにそんな薄着で歩くな!」とまた知らない人から急に言われたこともある。これは通り魔的叱責とでも呼ぶべきもので、その人は心理的な抑圧を受けていた等何らかの背景から何かに怒りたくて仕方が無かったのではないかと思う。
怒りや叱責には現時点での私の知らない何らかの性質や法則があり、多くの怒られ体験を有する私はいつかいんちき心理学を構築することができるのかもしれない。怒られることについての本を書く日まで怒りを買い過ぎて惨殺されないようにせいぜい気をつけようと思う。
ひとには他人よりも優位に立ちたいという願望があることがある。叱責することにはそれを満たしてくれる行為であることに加えて「自分は正当なことを述べている」と思わせてくれる性質もあるので、叱責の快感に酔う人はいるものであると思う。
例えば私はかつて歩道の狭い道を歩いていた際に、前方から来た自転車に乗った人から「こっちのほうが歳上なんだから譲りなさいよ!」と怒られたことがある。「どっちが歳上かはまだ分からなくないですか」と私が尋ねるとその人は鼻を鳴らして去っていった。
この遣り取りにしても私が立派な人物であれば「妥当な疑問を呈している」と見なされるであろうが、私は立派でないので「余計な口応えをして火に油を注いでいる」と認識され、そうして叱責は別の叱責に繋がる。私に怒る人々は強くて立派で結構なことだが、そういう人々にとって私なんかにかかずらっているのは一種の恥ではないのだろうか。
とにかく頻繁に叱責を受けるので、私は時に今まで受けた叱責について思い返して「あの人は何を思って私を叱責していたのだろう」と想像することがある。例えば私は出張で他地方へ行って各所へ業務の電話をしていた際に、見知らぬ人から「電話ばっかりしてないで地元の人間と話せ!」と怒られたことがあった。この場合叱責は地元への強い愛情から生じている可能性がある。別の例では「この寒いのにそんな薄着で歩くな!」とまた知らない人から急に言われたこともある。これは通り魔的叱責とでも呼ぶべきもので、その人は心理的な抑圧を受けていた等何らかの背景から何かに怒りたくて仕方が無かったのではないかと思う。
怒りや叱責には現時点での私の知らない何らかの性質や法則があり、多くの怒られ体験を有する私はいつかいんちき心理学を構築することができるのかもしれない。怒られることについての本を書く日まで怒りを買い過ぎて惨殺されないようにせいぜい気をつけようと思う。
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