tinc さんの日記
2021
9月
20
(月)
22:06
本文
私の知人にある時期手洗いを止められなかった人がいる。その人は手の皮膚が手洗いによる損傷のために常に痛み雑菌に感染しても日に数時間を手洗いに費し、精神科の病院に通院し投薬と心理療法を受けることを数か月続けた。
気分の落ち込み等の精神症状も発現し、仕事を休んで実家に戻って過ごしていたある日、その人は入院していた高齢のご祖母の見舞いに行った。ご祖母が差し出した染みと皺だらけの手を躊躇いながら握った途端にその人は自身の手洗いに対する強迫的な気持ちが無くなったのを感じ、程なくして手洗いは適当な頻度になり皮膚の損傷と気分の落ち込みは回復したという。
「綺麗にしていることは大事だと思います」その人はその出来事の後に私に言った。「でも完璧に綺麗なものは無く、完璧なものが常に良いわけでもないのだと思います」
「私もそう思います」私は答えた。そして心中でとても不思議に感じた。その人には私と文房具のみならず飲みかけの飲料をも共用するということが珍しくなくあった。そのような不潔なことを一方でしながら手洗いを止めなかったその人が、特段不潔でないであろうご祖母の手を握ることによって何を感じ何を得て手洗いの強迫から脱したものかとあれこれ想像を巡らすことになった。
そして結局は私には何も分からなかった。
私は清潔とは汚染の希釈であると考えている。同様に安全は危険の希釈であるとも考えている。私が怖がり起こってほしくないと思っていることはいつか何かの形で起こるもので、それに対して私に何かできるとしたらそれはそれらを遠ざけたり小さくしたりしてなるべく軽微なものにすることだけであろう。
多くの人は私と同じように考えているのではないかと思う。上に挙げた手洗いを止められなかった人もそうであったのではないか。しかしいずれにせよ手洗いの強迫は一時期にその人の心を捕らえその行動を支配し、そしてご祖母の手に敗北したのである。
この一連の出来事についてその人から聞いた話から、私は自身の心理や行動を統制することの困難を改めて感じた。私は日頃あれこれと考えて何事かを言ったり言わなかったり、何事かをしたりしなかったりすることを選択しているつもりになっている。しかしその考えはおそらく下手の考えであって、いろいろなことを見落としていたり誤って認識していたりして考えの形を成しておらず、概ねは考えて決めたわけではないことが私の心理や行動を動かしているのではないかと思う。自分の言動が自分で思うのと他人から見て異なるということにはそのような側面もあるような気がするのである。
無自覚なものに突き動かされることも多いのであれば、私はせめてそのこと自体に対しては自覚的でありたいと思う。自身のことでも説明し難いということはおそらく誰にもあることなのだ。説明に窮する人をそれでも追及せざるを得ないこともあるのだが、そのような時にも私はその人を追及する一方で、追及しても何も得られなかった場合に自分がどうするのかを考えておかねばならない。あまり人任せにせずいくらかは自分で何とかしよう。
気分の落ち込み等の精神症状も発現し、仕事を休んで実家に戻って過ごしていたある日、その人は入院していた高齢のご祖母の見舞いに行った。ご祖母が差し出した染みと皺だらけの手を躊躇いながら握った途端にその人は自身の手洗いに対する強迫的な気持ちが無くなったのを感じ、程なくして手洗いは適当な頻度になり皮膚の損傷と気分の落ち込みは回復したという。
「綺麗にしていることは大事だと思います」その人はその出来事の後に私に言った。「でも完璧に綺麗なものは無く、完璧なものが常に良いわけでもないのだと思います」
「私もそう思います」私は答えた。そして心中でとても不思議に感じた。その人には私と文房具のみならず飲みかけの飲料をも共用するということが珍しくなくあった。そのような不潔なことを一方でしながら手洗いを止めなかったその人が、特段不潔でないであろうご祖母の手を握ることによって何を感じ何を得て手洗いの強迫から脱したものかとあれこれ想像を巡らすことになった。
そして結局は私には何も分からなかった。
私は清潔とは汚染の希釈であると考えている。同様に安全は危険の希釈であるとも考えている。私が怖がり起こってほしくないと思っていることはいつか何かの形で起こるもので、それに対して私に何かできるとしたらそれはそれらを遠ざけたり小さくしたりしてなるべく軽微なものにすることだけであろう。
多くの人は私と同じように考えているのではないかと思う。上に挙げた手洗いを止められなかった人もそうであったのではないか。しかしいずれにせよ手洗いの強迫は一時期にその人の心を捕らえその行動を支配し、そしてご祖母の手に敗北したのである。
この一連の出来事についてその人から聞いた話から、私は自身の心理や行動を統制することの困難を改めて感じた。私は日頃あれこれと考えて何事かを言ったり言わなかったり、何事かをしたりしなかったりすることを選択しているつもりになっている。しかしその考えはおそらく下手の考えであって、いろいろなことを見落としていたり誤って認識していたりして考えの形を成しておらず、概ねは考えて決めたわけではないことが私の心理や行動を動かしているのではないかと思う。自分の言動が自分で思うのと他人から見て異なるということにはそのような側面もあるような気がするのである。
無自覚なものに突き動かされることも多いのであれば、私はせめてそのこと自体に対しては自覚的でありたいと思う。自身のことでも説明し難いということはおそらく誰にもあることなのだ。説明に窮する人をそれでも追及せざるを得ないこともあるのだが、そのような時にも私はその人を追及する一方で、追及しても何も得られなかった場合に自分がどうするのかを考えておかねばならない。あまり人任せにせずいくらかは自分で何とかしよう。
閲覧(1111)
カテゴリー | ||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |