tinc さんの日記
2021
7月
15
(木)
20:33
本文
私は考え無しに話す人間であるので、発する言葉とその言葉を発する心境が異なるという経験の少ないほうなのではないかと思う。しかしその私にも多少はその種の経験があるくらいなので、ものを考えながら話すであろう世の多くの人々には思っていないことを敢えて言ったり、何かを半ば無理に言わされたりということがたくさんあるものと想像している。人によりそれを嘘と云う人もあろうし、気遣いによるものと見做すこともあるであろう。そして多くは時と場合によるというところであろう。
何かを言わねばならないとか何かを言ってはならないということは大変窮屈なものであると思う。発言に責任を負うことが人の世の中の大きな基準になっているので、下手なことは言えない、しかし何かを表明しなければならないという難しい状況に置かれることは誰にもざらにある。基本的な権利の堅持や相互尊重という仕組みが未だ実現されていない中で何かを発言したりしなかったりすることは己の身を危険に曝すことである。絶対の安全を考えることは困難であるが言論は少なくとも充分に安全なものではない。
私は近頃になって発言を求められる機会に出会うことが増えた。年齢的に世の仕組みや自分の就いている仕事をある程度理解した中間層と見做されるようになったということでもあるし、現在たまたま公私の人間関係において私の発言を何か意味のあるものとして扱う人がいるということでもあると理解している。
物事をあまり理解していない私に発言できる内容はいつも少ない。それで相手をがっかりさせることも多いものの、発言を求められることの無かった以前よりも良い状況にあると云うこともできる。
私は言葉に気をつけることの重要性を理解しているつもりであるが、実際には理解していないので下手なことを言ったり何かを言うべきときに黙っていたりしてしくじり続けている。言葉は自由なものであるべきと思う私と、うまくやってゆくために自由をいくらか諦めようとする私。噛み合わず反目する複数の自己。世間の他の人は皆ずっとこれほど大変な思いをしているのかとようやく感じる昨今である。
何かを言わねばならないとか何かを言ってはならないということは大変窮屈なものであると思う。発言に責任を負うことが人の世の中の大きな基準になっているので、下手なことは言えない、しかし何かを表明しなければならないという難しい状況に置かれることは誰にもざらにある。基本的な権利の堅持や相互尊重という仕組みが未だ実現されていない中で何かを発言したりしなかったりすることは己の身を危険に曝すことである。絶対の安全を考えることは困難であるが言論は少なくとも充分に安全なものではない。
私は近頃になって発言を求められる機会に出会うことが増えた。年齢的に世の仕組みや自分の就いている仕事をある程度理解した中間層と見做されるようになったということでもあるし、現在たまたま公私の人間関係において私の発言を何か意味のあるものとして扱う人がいるということでもあると理解している。
物事をあまり理解していない私に発言できる内容はいつも少ない。それで相手をがっかりさせることも多いものの、発言を求められることの無かった以前よりも良い状況にあると云うこともできる。
私は言葉に気をつけることの重要性を理解しているつもりであるが、実際には理解していないので下手なことを言ったり何かを言うべきときに黙っていたりしてしくじり続けている。言葉は自由なものであるべきと思う私と、うまくやってゆくために自由をいくらか諦めようとする私。噛み合わず反目する複数の自己。世間の他の人は皆ずっとこれほど大変な思いをしているのかとようやく感じる昨今である。
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