tinc さんの日記
2021
7月
11
(日)
20:56
本文
現職場を退職することになった。以前にパートとして勤務していた福祉団体から復職の打診があったことと、現職場には私以外にもっと有能な人材が揃っており自身の必要性を感じられないことが理由である。
私を採用した理事長は「この先が心配ですね」と言った。理事長曰く私は他人を支える術に長けている一方で私自身を支える人を探す術を持たないという。崇高な理念を持ちその実践を進めながら自身はだんだん磨り減っていつか倒れてしまう人物。理事長の目には私はそういうふうに映っていたのだそうだ。
「それらは全てあなた自身のことを仰っているように思います」と私は述べた。
この理事長からは私の入職間もない頃に似た内容の言葉を受けたことがあった。「あなたを支える人はいるのか」と理事長は私に問うた。その際私は理事長へ「理事長はどうですか。あなたを支える人がいますか」と尋ね返した。理事長から返ってきたのは「どうでしょう。でもそのことを気にかけてくれてありがとう」という言葉であった。
私はそれを自ら孤独であろうとする人物が援助を拒否することであると感じた。
人は鏡と云う。人間はそれぞれ個体差が大きく多面的な存在であるので鏡であるばかりではないものの、鏡のような側面も見せるということだと思う。私のように自ら先手を取って他人へ働きかけることの比較的少ない傾向の人間は他人の行動を受けてそれに反応する機会を多く持つため、鏡のような側面を見せる機会もそれだけ多いということかもしれない。私の感想では理事長が私を評して述べたことは的外れであり、私は自分の損を経てでも他人へ貢献しようとするような出来た人間ではない。おそらく理事長は私ではなく私に映された自身の姿を見ていたのであろう。
私は私で理事長のことを心配している。理事長の理念は崇高であるが、どのような形であれそれを小規模な団体で実現するためには団体を構成する職員を余程精査する必要がある。年齢が高く脈絡の無い職歴を有し福祉関係の資格を持たない私をおよそ半年前に理事長が採ったということが、実は理事長の理念の実現の一実践であったのではないかと私は思うことがある。理事長は放置すれば路頭に迷いかねない人間を1人雇用して生活を構築する術を与えた。理事長自身はいつも忙しく働いており直近の健康診断では腫瘍の可能性も検知されたと聞いた。弱音を吐かず部下を気遣い身近の出資者に楯突くその姿を見るにつけ、ああいうふうになりたいものだ、と私は思っていた。
しかし私がどれほど理事長への憧憬を抱こうとも理事長も一個の人間に過ぎない。私はこの半年間で理事長に自分の理想を求めてしまったという反省もしている。理事長もまた私の理想を映す鏡の役割を担っていた。
ひとに理想を求めるということは一種の渇望のようなもので、自らそれを得ることができないので与えられるのを待つしかないという無力の表れでもある。私は日頃いろいろな人からいろいろなものを受け取っているのでそろそろ誰かに何かを与える側に回る機会を得たいと考えており、そのために現実を直視しようと試みている。真に誰かへ何かを与えようとすればその道は長く険しく報われることの甚だ少ないものになろうから、これから現実を見据えれば私はその姿に驚くかもしれない。しかし与えられるのを待って泣き声を上げるしかないような自分でいることにはもう飽きてしまった。
私を採用した理事長は「この先が心配ですね」と言った。理事長曰く私は他人を支える術に長けている一方で私自身を支える人を探す術を持たないという。崇高な理念を持ちその実践を進めながら自身はだんだん磨り減っていつか倒れてしまう人物。理事長の目には私はそういうふうに映っていたのだそうだ。
「それらは全てあなた自身のことを仰っているように思います」と私は述べた。
この理事長からは私の入職間もない頃に似た内容の言葉を受けたことがあった。「あなたを支える人はいるのか」と理事長は私に問うた。その際私は理事長へ「理事長はどうですか。あなたを支える人がいますか」と尋ね返した。理事長から返ってきたのは「どうでしょう。でもそのことを気にかけてくれてありがとう」という言葉であった。
私はそれを自ら孤独であろうとする人物が援助を拒否することであると感じた。
人は鏡と云う。人間はそれぞれ個体差が大きく多面的な存在であるので鏡であるばかりではないものの、鏡のような側面も見せるということだと思う。私のように自ら先手を取って他人へ働きかけることの比較的少ない傾向の人間は他人の行動を受けてそれに反応する機会を多く持つため、鏡のような側面を見せる機会もそれだけ多いということかもしれない。私の感想では理事長が私を評して述べたことは的外れであり、私は自分の損を経てでも他人へ貢献しようとするような出来た人間ではない。おそらく理事長は私ではなく私に映された自身の姿を見ていたのであろう。
私は私で理事長のことを心配している。理事長の理念は崇高であるが、どのような形であれそれを小規模な団体で実現するためには団体を構成する職員を余程精査する必要がある。年齢が高く脈絡の無い職歴を有し福祉関係の資格を持たない私をおよそ半年前に理事長が採ったということが、実は理事長の理念の実現の一実践であったのではないかと私は思うことがある。理事長は放置すれば路頭に迷いかねない人間を1人雇用して生活を構築する術を与えた。理事長自身はいつも忙しく働いており直近の健康診断では腫瘍の可能性も検知されたと聞いた。弱音を吐かず部下を気遣い身近の出資者に楯突くその姿を見るにつけ、ああいうふうになりたいものだ、と私は思っていた。
しかし私がどれほど理事長への憧憬を抱こうとも理事長も一個の人間に過ぎない。私はこの半年間で理事長に自分の理想を求めてしまったという反省もしている。理事長もまた私の理想を映す鏡の役割を担っていた。
ひとに理想を求めるということは一種の渇望のようなもので、自らそれを得ることができないので与えられるのを待つしかないという無力の表れでもある。私は日頃いろいろな人からいろいろなものを受け取っているのでそろそろ誰かに何かを与える側に回る機会を得たいと考えており、そのために現実を直視しようと試みている。真に誰かへ何かを与えようとすればその道は長く険しく報われることの甚だ少ないものになろうから、これから現実を見据えれば私はその姿に驚くかもしれない。しかし与えられるのを待って泣き声を上げるしかないような自分でいることにはもう飽きてしまった。
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