tinc さんの日記
2021
6月
27
(日)
14:52
本文
私はとかく何につけても非常識というか、世間一般の感覚や価値観というものに鈍感でありまたそれらを軽視しがちで、自分一人の思うことや感じることに従って考え動きたがる人物である。人間が相互に尊重しあうことは重要であると考えている一方で、他人と円滑な関係を結ぶとか信頼関係を構築するとかの技能は皆無に等しい。それらの技能の欠落故に自身が重視しているはずの相互尊重の機会を逸していることも多々あろうが、実際にはその事実に対してすら鈍感であったりする。
つまり、私は自身が重視しているものに対して鋭敏でもなければその中身を理解してもいない。相互尊重という言葉の実態を知らぬままそれを重視するということは妄信に近い。
私に関する限りこういった例は数知れない。
例えば現在の地球上には独裁的な政治体制で知られる幾つかの国家があり、その国家の国民一般が多くの人の憎悪を集めるということがある。その事象を知覚した私も何となく「あの国家は危険である」とか「あの国の国民は好ましからぬ性質を共通して持っている」というふうに感じることがある。しかし国家の体制が独裁的であれば国民の活動も限られたものになり、その結果国民が共通的に似た性質を持つようになってくるということは自然な流れであるので、独裁国家の国民を憎むことにどれほどの妥当性があるのかは本来判然としないはずのことである。この話題はそもそも憎悪に妥当性が必要であるのかとか、独裁政権の樹立と独裁に帰服する国民性のどちらが先行するのかとか、広く独裁国家の謗りを受けていない国家が本当に独裁的でないのかとか、人間の性質がいかにしてどの程度まで環境の影響を受けるのかとか、ある人間が別の人間と似ているというのは何を指すのかとかの数々の困難な問題へ必ず発展してゆくため、私の時に抱きかける独裁国家とその国民一般への義憤という名の憎悪は、ものを考えるほどに頼りなく空虚なものに思われてくる。
単純な考えから云ってもそれは当然のことで、私の嫌うものが悪で私の好むものが善であるなどという馬鹿げた話が現実に存在するはずは無い。この世は私の悦楽のために生成されたものではないのである。
私には敵はいない。独裁国家の政府や国民が私のことを知らないように、あらゆる場所を跋扈する悪人の誰一人として私を歯牙にもかけないように、殆どの人にとって私など問題ではない。もし私を敵視する人があるなら、その人は私に勝った後次の相手に必ず敗北するであろう。私と同じ段階に立って戦わざるを得ないならば他の誰にも勝てないからだ。
私の敵は私のみである。とりわけ私の愚かさである。
この愚かさに打ち勝つために私は頭の中で策を練ることもある。その中で冒頭に挙げた世間に普及した感覚や価値観への無関心というものは存外、私の愚かさの大きな要因であるのかもしれないと思う。私を含む人間一般には共通するものがあるはずで、また私は私のみで生きてゆくことのできるものではないから、他の人々の考えをもっと知るべきなのではないか。何かを知ることとそれを信じることは異なる。世間とうまくやってゆくのが嫌ならそうしなければよい。しかし世間が何を考えているのか知らぬまま生きてゆけば私は知らぬ間に世間に同化することになるであろう。私は知らないという愚かさによって自分の最も望まぬ結果に帰着してしまうことになる。
そのようなことを考えるので、最近の私はなるべく多くの人と話す機会を持つようにしようと考えている。ひとと話すことを苦手とする私であるが、その私を生かすのもまたひとと話すことなのだと思う。今のところ誰も他の誰にも似ていないように私には見える。また私は誰かの話すことに宿る普遍的な事実や抽象的な真理に気付くことも無い。今の私にとってはものを見聞し考えるということは濃霧の中を歩くようなのもので、高所からの清明な眺望など一度も得たことがないような気がしている。
誰かの言葉や考えを一時でも借りることで、私は今の自分を脱して新しい何かを獲得できるであろう。まだ死にたくないと思うのは、そうなればきっと楽しいのではないかと思うからである。
つまり、私は自身が重視しているものに対して鋭敏でもなければその中身を理解してもいない。相互尊重という言葉の実態を知らぬままそれを重視するということは妄信に近い。
私に関する限りこういった例は数知れない。
例えば現在の地球上には独裁的な政治体制で知られる幾つかの国家があり、その国家の国民一般が多くの人の憎悪を集めるということがある。その事象を知覚した私も何となく「あの国家は危険である」とか「あの国の国民は好ましからぬ性質を共通して持っている」というふうに感じることがある。しかし国家の体制が独裁的であれば国民の活動も限られたものになり、その結果国民が共通的に似た性質を持つようになってくるということは自然な流れであるので、独裁国家の国民を憎むことにどれほどの妥当性があるのかは本来判然としないはずのことである。この話題はそもそも憎悪に妥当性が必要であるのかとか、独裁政権の樹立と独裁に帰服する国民性のどちらが先行するのかとか、広く独裁国家の謗りを受けていない国家が本当に独裁的でないのかとか、人間の性質がいかにしてどの程度まで環境の影響を受けるのかとか、ある人間が別の人間と似ているというのは何を指すのかとかの数々の困難な問題へ必ず発展してゆくため、私の時に抱きかける独裁国家とその国民一般への義憤という名の憎悪は、ものを考えるほどに頼りなく空虚なものに思われてくる。
単純な考えから云ってもそれは当然のことで、私の嫌うものが悪で私の好むものが善であるなどという馬鹿げた話が現実に存在するはずは無い。この世は私の悦楽のために生成されたものではないのである。
私には敵はいない。独裁国家の政府や国民が私のことを知らないように、あらゆる場所を跋扈する悪人の誰一人として私を歯牙にもかけないように、殆どの人にとって私など問題ではない。もし私を敵視する人があるなら、その人は私に勝った後次の相手に必ず敗北するであろう。私と同じ段階に立って戦わざるを得ないならば他の誰にも勝てないからだ。
私の敵は私のみである。とりわけ私の愚かさである。
この愚かさに打ち勝つために私は頭の中で策を練ることもある。その中で冒頭に挙げた世間に普及した感覚や価値観への無関心というものは存外、私の愚かさの大きな要因であるのかもしれないと思う。私を含む人間一般には共通するものがあるはずで、また私は私のみで生きてゆくことのできるものではないから、他の人々の考えをもっと知るべきなのではないか。何かを知ることとそれを信じることは異なる。世間とうまくやってゆくのが嫌ならそうしなければよい。しかし世間が何を考えているのか知らぬまま生きてゆけば私は知らぬ間に世間に同化することになるであろう。私は知らないという愚かさによって自分の最も望まぬ結果に帰着してしまうことになる。
そのようなことを考えるので、最近の私はなるべく多くの人と話す機会を持つようにしようと考えている。ひとと話すことを苦手とする私であるが、その私を生かすのもまたひとと話すことなのだと思う。今のところ誰も他の誰にも似ていないように私には見える。また私は誰かの話すことに宿る普遍的な事実や抽象的な真理に気付くことも無い。今の私にとってはものを見聞し考えるということは濃霧の中を歩くようなのもので、高所からの清明な眺望など一度も得たことがないような気がしている。
誰かの言葉や考えを一時でも借りることで、私は今の自分を脱して新しい何かを獲得できるであろう。まだ死にたくないと思うのは、そうなればきっと楽しいのではないかと思うからである。
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