tinc さんの日記
2021
5月
28
(金)
06:33
本文
努力せよとは頻繁に投げかけられる言葉であるが、私は努力が何なのか知らない。同じことを同じように行っているつもりでもある人からは努力家と評されたり、別の人からは怠けていると言われたりする。要求される水準が異なるということなのかもしれないが努力などという測定のできないものにどうやって水準を設けるのか不明である。
使われ方としても「努力して働け」とか「努力して育児に臨め」ということが際限無く言われる一方で「努力して人生を謳歌せよ」とか「困った時に他人の助力を求める努力をせよ」等は殆ど耳にしない。「嫌なことを我慢して行う」ことを努力と呼ぶからなのかもしれない。私の感覚では嫌なことを我慢して行うことはなるべく少ないほうが良いに決まっているので、その場合私は努力を良いものに数えることはできなくなる。現に差別を継続したり戦争を勃発させたりすることに努力をする人もいるように、努力自体は何か良いものであったり悪いものであったりせず、文字通り何かの力なのだと思う。力を使い過ぎると人間は疲弊して他のことをできなくなったり自分を失ったりしてしまうので、努力するにも適切な範囲というものもあるだろう。
そうなると「正しい目的のために適切に努力せよ」というところが妥当なのかもしれない。しかしこれは云わば常識を述べているに過ぎず、何が正しい目的で適切な範囲とはどの程度なのかを都度考える必要が生じる。
他人と話していて努力への認識に齟齬が生じる場合、これらの目的意識や範囲の設定の違いに原因があることが多いように私には感じられる。自分が努力していることを周囲から認められなかったり、反対に過剰と思える称賛を受けたり、あるいは他人が怠けているように見えたりとても偉いと思われたりするという経験は多くの人がしているのではないかと思う。
またややこしいことに努力して何かを行うこととその結果の良悪は直結しないことが殆どである。いくら努力しても駄目なものは駄目だし、労せずして益を得るということもある。多大な努力が良い結果を生むことも無いではないものの、両者は時に結びつくことがあるというだけで直結するものではない。結果の良悪を努力の量に直結させようとするのは、それを信仰心の多寡に直結させようとするのと同様、目に見えず測れないもので万事を説明しようとする徒労であると云えるだろう。
ところが「不幸な境遇にあるのは本人の努力が足りないからだ」ということは平気に言われたりするので、この神話はまだ存続しているものと見える。
そのようなことを思うので私は努力というものを扱い難いわりには濫用されがちな言葉だと受け止めて苦手に感じている。私も物事に真面目に取り組もうと思うことがあるが、その際も努力というものを頭から排し、代わりに「落ち着いて考えよう」とか「集中して臨もう」と心がけている。落ち着いているとか集中しているとかの状態も測定の不可能なものであるとはいえ、自分が努力しているかどうかということに比べれば自分では把握しやすい。
現代においては忠誠、信仰、忍耐といった言葉の恣意的な濫用が以前ほどの力を持っていない。しかし努力、あるいは成功や自己実現という言葉がそれらの地位を剥奪したに過ぎないのかもしれない。私はそれらの言葉を否定しないが、それらの言葉の飛び交う環境を好きでないので、今まで通りしたいことをしたいようにすることを続けようと思う。
使われ方としても「努力して働け」とか「努力して育児に臨め」ということが際限無く言われる一方で「努力して人生を謳歌せよ」とか「困った時に他人の助力を求める努力をせよ」等は殆ど耳にしない。「嫌なことを我慢して行う」ことを努力と呼ぶからなのかもしれない。私の感覚では嫌なことを我慢して行うことはなるべく少ないほうが良いに決まっているので、その場合私は努力を良いものに数えることはできなくなる。現に差別を継続したり戦争を勃発させたりすることに努力をする人もいるように、努力自体は何か良いものであったり悪いものであったりせず、文字通り何かの力なのだと思う。力を使い過ぎると人間は疲弊して他のことをできなくなったり自分を失ったりしてしまうので、努力するにも適切な範囲というものもあるだろう。
そうなると「正しい目的のために適切に努力せよ」というところが妥当なのかもしれない。しかしこれは云わば常識を述べているに過ぎず、何が正しい目的で適切な範囲とはどの程度なのかを都度考える必要が生じる。
他人と話していて努力への認識に齟齬が生じる場合、これらの目的意識や範囲の設定の違いに原因があることが多いように私には感じられる。自分が努力していることを周囲から認められなかったり、反対に過剰と思える称賛を受けたり、あるいは他人が怠けているように見えたりとても偉いと思われたりするという経験は多くの人がしているのではないかと思う。
またややこしいことに努力して何かを行うこととその結果の良悪は直結しないことが殆どである。いくら努力しても駄目なものは駄目だし、労せずして益を得るということもある。多大な努力が良い結果を生むことも無いではないものの、両者は時に結びつくことがあるというだけで直結するものではない。結果の良悪を努力の量に直結させようとするのは、それを信仰心の多寡に直結させようとするのと同様、目に見えず測れないもので万事を説明しようとする徒労であると云えるだろう。
ところが「不幸な境遇にあるのは本人の努力が足りないからだ」ということは平気に言われたりするので、この神話はまだ存続しているものと見える。
そのようなことを思うので私は努力というものを扱い難いわりには濫用されがちな言葉だと受け止めて苦手に感じている。私も物事に真面目に取り組もうと思うことがあるが、その際も努力というものを頭から排し、代わりに「落ち着いて考えよう」とか「集中して臨もう」と心がけている。落ち着いているとか集中しているとかの状態も測定の不可能なものであるとはいえ、自分が努力しているかどうかということに比べれば自分では把握しやすい。
現代においては忠誠、信仰、忍耐といった言葉の恣意的な濫用が以前ほどの力を持っていない。しかし努力、あるいは成功や自己実現という言葉がそれらの地位を剥奪したに過ぎないのかもしれない。私はそれらの言葉を否定しないが、それらの言葉の飛び交う環境を好きでないので、今まで通りしたいことをしたいようにすることを続けようと思う。
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