freescaleII さんの日記
2021
5月
23
(日)
11:28
本文
ちょっと長文ですが、時代の目撃者として。
コロナ流行だからというわけでは有りませんが、多少の事では驚かなくなりました。
自分がわざわざ戦場にまで出かけて行ったわけでもないのに、たまたまそこにいた為、見なくとも済むものを見てしまいました。
顔の焼けた兵士、足を失った兵士。ついこの間まで一緒に仕事をして、夜にはパーテイの仲間でした。
シナイの砂漠に置き去りにされた戦車の残骸の周りに転がる主のない戦闘ブーツ。このブーツの主はきっと死んでしまったのでしょう。
イラン革命の数日前、テヘラン郊外のキャンプ場にいましたが、そこで仲良くなったCBSの女性記者が言いました。直ちにここを離れた方がいいよ。学生のデモが激しくなり街の周りには戦車が並んでるからと。
確かにデモには遭遇はしましたが、そこまで深刻とは思ってなかったのです。
そして私がオンボロ・バスでイスタンブールへ去った2,3日後、あのイスラム革命となりました。
革命の常で残虐な事が起きました。フランス革命やロシア革命のように、気まぐれな革命評議会によりたくさんの血が流されました。
スペインはマドリッドで直接見た独裁者フランコ総統。
現代の人達は知らない人が多いのですが、あの頃はフランコ親衛隊が有りスペイン国民は、他の軍事政権国家のの韓国、台湾と同じように自由が有りませんでした。国境を超える時には所持品検査が有り厳しい監視の目が光っていました。
最近スペインに行かれた方には信じられない話ですが、昔はそうだったのです。
東ドイツではマルクス主義的社会主義の為に極端に抑圧された人達....拷問を受け死の淵にいた友人。1968年あたりまで有ったギロチンにより刑の執行。しかし失敗が多く、その後は後頭部を拳銃での射殺刑に変わった事。処刑後、家族にはたった一通の手紙、”病死”の一言だけ。その牢獄と処刑場が今住んでいるところから2km程離れたところに残っています。
そして皮肉にもベルリンの壁を破る無血平和革命のきっかけとなったのもここが発祥です。
3000人以上の死者の有ったベルファストでは、内戦の中でも逞しく生きる人達を見ました。その後ソビエトの崩壊で資金と武器の後ろ盾が無くなり、武力闘争を放棄したIRA。
世の中には悲惨な話が沢山有ります。
それに比べれてコロナ禍ってなんでしょうか。
現実に死んでゆく人達が沢山いるのに、危険と背中合わせで戦う人がいるのに、食べるものも不自由なく、いつでもネットで繋がり、言いたいことも言い放題。
それでも、人々は不自由を嘆き、今の人知の及ぶ限りの解決策であるワクチンも否定して文句たらたら。少しでもうまくいかなければ叩きまくるひねくれ者。
良く日本は外国よりも安全と言われますが、私の経験では、それは本当かな?という思いが有ります。
1974年あたりですが、ドイツ政府による正式な滞在ビザ発給の為日本に少し滞在した事が有りますが、ところは六本木。夜少し混みあった歩道を歩いていたら4,5人の若者から袋叩きに遭いました。交番に届けを出しに行ったら、目撃者を自称する野次馬の一人が、あれは警官達による犯行だったという若い男性がいました。左翼シンパだと思いますが。
友人と上野に行った時に新左翼デモが有り、学生らしき一団がヘルメットにゲバ棒を銃のように肩にかかえ、まるで軍隊のように横隊行進をしていましたが、やがて散らばって我々のところに来て、参加を求めて来ました。
「君たちは学生だろう、だったら俺たちを理解してるだろう」というので、
「平和デモなのにその軍隊ごっこ、まったく理解できないね」と言ったら、もう少しで持ってるゲバ棒でぶん殴られそうになり、丁度そこで彼らの仲間が機動隊が追って来たから逃げろと叫び、行ってしまいました。
やがてこういう学生連中は髪を切って背広を着、何食わぬ顔で就職しエリートとして社会に混じり、公務員になったり民間に努めたり、多かれ少なかれ今の日本を作り、牽引してきました。
良しに付け悪しきに付け、今の日本は総てこいつらが作って来たのです。
中には火炎瓶を投げて警官を殺したり、内ゲバで仲間を殺したりした人がそしらぬ顔で混じっている筈です。
海外の怪しい簡易宿に泊まるときは、いつも枕の下にチェーンを忍ばせていましたが、幸い使う事は有りませんでした。
硬い話の後はちょっと雰囲気変えて...
コロナ流行だからというわけでは有りませんが、多少の事では驚かなくなりました。
自分がわざわざ戦場にまで出かけて行ったわけでもないのに、たまたまそこにいた為、見なくとも済むものを見てしまいました。
顔の焼けた兵士、足を失った兵士。ついこの間まで一緒に仕事をして、夜にはパーテイの仲間でした。
シナイの砂漠に置き去りにされた戦車の残骸の周りに転がる主のない戦闘ブーツ。このブーツの主はきっと死んでしまったのでしょう。
イラン革命の数日前、テヘラン郊外のキャンプ場にいましたが、そこで仲良くなったCBSの女性記者が言いました。直ちにここを離れた方がいいよ。学生のデモが激しくなり街の周りには戦車が並んでるからと。
確かにデモには遭遇はしましたが、そこまで深刻とは思ってなかったのです。
そして私がオンボロ・バスでイスタンブールへ去った2,3日後、あのイスラム革命となりました。
革命の常で残虐な事が起きました。フランス革命やロシア革命のように、気まぐれな革命評議会によりたくさんの血が流されました。
スペインはマドリッドで直接見た独裁者フランコ総統。
現代の人達は知らない人が多いのですが、あの頃はフランコ親衛隊が有りスペイン国民は、他の軍事政権国家のの韓国、台湾と同じように自由が有りませんでした。国境を超える時には所持品検査が有り厳しい監視の目が光っていました。
最近スペインに行かれた方には信じられない話ですが、昔はそうだったのです。
東ドイツではマルクス主義的社会主義の為に極端に抑圧された人達....拷問を受け死の淵にいた友人。1968年あたりまで有ったギロチンにより刑の執行。しかし失敗が多く、その後は後頭部を拳銃での射殺刑に変わった事。処刑後、家族にはたった一通の手紙、”病死”の一言だけ。その牢獄と処刑場が今住んでいるところから2km程離れたところに残っています。
そして皮肉にもベルリンの壁を破る無血平和革命のきっかけとなったのもここが発祥です。
3000人以上の死者の有ったベルファストでは、内戦の中でも逞しく生きる人達を見ました。その後ソビエトの崩壊で資金と武器の後ろ盾が無くなり、武力闘争を放棄したIRA。
世の中には悲惨な話が沢山有ります。
それに比べれてコロナ禍ってなんでしょうか。
現実に死んでゆく人達が沢山いるのに、危険と背中合わせで戦う人がいるのに、食べるものも不自由なく、いつでもネットで繋がり、言いたいことも言い放題。
それでも、人々は不自由を嘆き、今の人知の及ぶ限りの解決策であるワクチンも否定して文句たらたら。少しでもうまくいかなければ叩きまくるひねくれ者。
良く日本は外国よりも安全と言われますが、私の経験では、それは本当かな?という思いが有ります。
1974年あたりですが、ドイツ政府による正式な滞在ビザ発給の為日本に少し滞在した事が有りますが、ところは六本木。夜少し混みあった歩道を歩いていたら4,5人の若者から袋叩きに遭いました。交番に届けを出しに行ったら、目撃者を自称する野次馬の一人が、あれは警官達による犯行だったという若い男性がいました。左翼シンパだと思いますが。
友人と上野に行った時に新左翼デモが有り、学生らしき一団がヘルメットにゲバ棒を銃のように肩にかかえ、まるで軍隊のように横隊行進をしていましたが、やがて散らばって我々のところに来て、参加を求めて来ました。
「君たちは学生だろう、だったら俺たちを理解してるだろう」というので、
「平和デモなのにその軍隊ごっこ、まったく理解できないね」と言ったら、もう少しで持ってるゲバ棒でぶん殴られそうになり、丁度そこで彼らの仲間が機動隊が追って来たから逃げろと叫び、行ってしまいました。
やがてこういう学生連中は髪を切って背広を着、何食わぬ顔で就職しエリートとして社会に混じり、公務員になったり民間に努めたり、多かれ少なかれ今の日本を作り、牽引してきました。
良しに付け悪しきに付け、今の日本は総てこいつらが作って来たのです。
中には火炎瓶を投げて警官を殺したり、内ゲバで仲間を殺したりした人がそしらぬ顔で混じっている筈です。
海外の怪しい簡易宿に泊まるときは、いつも枕の下にチェーンを忍ばせていましたが、幸い使う事は有りませんでした。
硬い話の後はちょっと雰囲気変えて...
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