ひろひろ48 さんの日記
2021
5月
19
(水)
21:42
本文
コロナ禍で露わになった、この社会の問題点、貧困の格差。なんとこのコロナ禍で、IT関連や、リモートワーク関連の企業が利益を伸ばし、その一方、貧困にあえぐ人たち、自殺者も増えている。一番ひどく感じるのは、不況だというのに、政府からの支給金が、貧しいものは、生きるため使われただけでなく、支援を必要としないところにいろんな政府からのお金が、株で儲けられるところに流れ、異常な株価になっている。マナーゲーム。
環境問題もこの何十年問題になっているが、いっこうによくならないどころか、地球を壊している。そんな中で、脱成長ということが、大きな動きになってきている。このままの資本主義、成長至上主義にならざるを得ない経済システムでいいのだろうか?NHKがマルクスの「資本論」を取りあげ、「人新世の資本論」の著者、斎藤幸平さんが解説している。
GDPが増えれば、人はしあわせになれるのか?人がしあわせに生きるのに、本当に必要なものは?
資本主義を前提にしている経済学者だけど、すこし参考になるかもしてないコラム記事を書いているので、紹介する。
時代を読む「GDPと幸せの変わり行く関係」by 浜 矩子(同支社大教授)
新学期の授業が始まり、直近の講義で「日本の国内総生産(GDP)」を取り上げた。
筆者の授業では、いずれの科目でも、事前レポートの一環として、受講者の皆さんから当日のテーマに関する「湧いてきた疑問」を寄せてもらう。それらの疑問についてお互いに解答を考える。この作業を通じて、発見の旅をするのえある。
「日本のGDP」という今回のテーマについては、「湧いてきた疑問」集から通底モチーフが3つ聞こえてきた。その一つが「GDPの数値とわれわれの景気実感は無関係なのに、この統計に一体どういう意味があるのか」というもの。その二が「GDPの数値は豊さの指標か」である。その三が「GDPの数値と人間の幸せは関係があるのか」だ。これら三つのモチーフは、ある時期から次第に「疑問集」の中で目立つようになりつつあった。
今回、この傾向が一段と顕著になっていた。もしも、この授業を1960年代から80年代前半あたりまでの時期に実施していたとすれば、これらの三大モチーフは全く出現していまかっただろうと思う。当時は、GDPではなくて、もっぱらGNP(国民総生産)が経済動向の尺度だあった。だが、指標はどうあれ、あの時代は日本の経済規模とその成長が人々の大いなる関心の対象だった。
日本の経済規模がどこまで来たか。経済成長率がどこまで高まったか。そのことが、人々の景況感と大いにシンクロしていた。「もはや戦後ではない」と言えるようになった。そのことが、日本経済の規模と成長率にかかっていた。日本社会はどれだけ豊かになったと言えるのか。そのことを示す尺度が、当時のGNP統計だった。豊かになるということは幸せになることを意味していた。「くたばれGNP」と言いながら。GNPが大きいことはいいことだと、誰もが実感していた。
だからこそ、ある時期まで経済予測に強い関心が寄せられていた。政府の経済予測はどうなるのか。民間調査機関の予測値は、そこからどれほど乖離しているか。これらのことに人々が固唾をのんで注目した。政府も民間の予測者たちも、鳴り物入りで自分たちの予測数値を発表した。だが、いまや経済予測はさほど関心をひきつけない。
なぜ、こうなってしまったか。それは、日本経済の発展段階が大きく変わったからだ。かつて、日本経済が成長期にあった時代には、その経済規模がどのようなペースで大きくなるかあが社会的な注目の的となった。それは、当然のことだった。理にかなうことだった。だが、今の日本経済は伸び盛りの成長期であるわけではない。その時代は卒業した。今の日本経済は、とても大きくてとても豊かな成熟経済だ。
「後進国化」しているという言い方がはやり始めた。重要な指摘だ。だが、もしも日本経済が「後進国化」しているとすれば、それは、日本経済が成長できなくなっているからではない。それは、この豊かな成熟経済が、その豊かさをうまく分かち合えていないからである。わが受講生の皆さんの感性は正しい。今日のGDPは、その規模と伸び方が問題ではない。その分配の稚拙さが、人々の景気実感と幸福度を決める。
<引用以上>
家電製品、自動車、衣服、ぜいたくなものにあふれている一方、食べるものやっと、住む所さえない、医療もうけられない、学校にもいけない、人として最低限の生活さえ保障されない社会。富めるものが政治を支配し、それを忖度する行政、官僚たちがいる。そう、富の集中、分配も問題だが、生産すべてが、富める者の支配に置かれ、いまの経済システムが産む、景気変動の調節弁に多くの低賃金の非正規雇用が都合よく使われているから。いろんな面から、変革が必要な時代なのだろう。
環境問題もこの何十年問題になっているが、いっこうによくならないどころか、地球を壊している。そんな中で、脱成長ということが、大きな動きになってきている。このままの資本主義、成長至上主義にならざるを得ない経済システムでいいのだろうか?NHKがマルクスの「資本論」を取りあげ、「人新世の資本論」の著者、斎藤幸平さんが解説している。
GDPが増えれば、人はしあわせになれるのか?人がしあわせに生きるのに、本当に必要なものは?
資本主義を前提にしている経済学者だけど、すこし参考になるかもしてないコラム記事を書いているので、紹介する。
時代を読む「GDPと幸せの変わり行く関係」by 浜 矩子(同支社大教授)
新学期の授業が始まり、直近の講義で「日本の国内総生産(GDP)」を取り上げた。
筆者の授業では、いずれの科目でも、事前レポートの一環として、受講者の皆さんから当日のテーマに関する「湧いてきた疑問」を寄せてもらう。それらの疑問についてお互いに解答を考える。この作業を通じて、発見の旅をするのえある。
「日本のGDP」という今回のテーマについては、「湧いてきた疑問」集から通底モチーフが3つ聞こえてきた。その一つが「GDPの数値とわれわれの景気実感は無関係なのに、この統計に一体どういう意味があるのか」というもの。その二が「GDPの数値は豊さの指標か」である。その三が「GDPの数値と人間の幸せは関係があるのか」だ。これら三つのモチーフは、ある時期から次第に「疑問集」の中で目立つようになりつつあった。
今回、この傾向が一段と顕著になっていた。もしも、この授業を1960年代から80年代前半あたりまでの時期に実施していたとすれば、これらの三大モチーフは全く出現していまかっただろうと思う。当時は、GDPではなくて、もっぱらGNP(国民総生産)が経済動向の尺度だあった。だが、指標はどうあれ、あの時代は日本の経済規模とその成長が人々の大いなる関心の対象だった。
日本の経済規模がどこまで来たか。経済成長率がどこまで高まったか。そのことが、人々の景況感と大いにシンクロしていた。「もはや戦後ではない」と言えるようになった。そのことが、日本経済の規模と成長率にかかっていた。日本社会はどれだけ豊かになったと言えるのか。そのことを示す尺度が、当時のGNP統計だった。豊かになるということは幸せになることを意味していた。「くたばれGNP」と言いながら。GNPが大きいことはいいことだと、誰もが実感していた。
だからこそ、ある時期まで経済予測に強い関心が寄せられていた。政府の経済予測はどうなるのか。民間調査機関の予測値は、そこからどれほど乖離しているか。これらのことに人々が固唾をのんで注目した。政府も民間の予測者たちも、鳴り物入りで自分たちの予測数値を発表した。だが、いまや経済予測はさほど関心をひきつけない。
なぜ、こうなってしまったか。それは、日本経済の発展段階が大きく変わったからだ。かつて、日本経済が成長期にあった時代には、その経済規模がどのようなペースで大きくなるかあが社会的な注目の的となった。それは、当然のことだった。理にかなうことだった。だが、今の日本経済は伸び盛りの成長期であるわけではない。その時代は卒業した。今の日本経済は、とても大きくてとても豊かな成熟経済だ。
「後進国化」しているという言い方がはやり始めた。重要な指摘だ。だが、もしも日本経済が「後進国化」しているとすれば、それは、日本経済が成長できなくなっているからではない。それは、この豊かな成熟経済が、その豊かさをうまく分かち合えていないからである。わが受講生の皆さんの感性は正しい。今日のGDPは、その規模と伸び方が問題ではない。その分配の稚拙さが、人々の景気実感と幸福度を決める。
<引用以上>
家電製品、自動車、衣服、ぜいたくなものにあふれている一方、食べるものやっと、住む所さえない、医療もうけられない、学校にもいけない、人として最低限の生活さえ保障されない社会。富めるものが政治を支配し、それを忖度する行政、官僚たちがいる。そう、富の集中、分配も問題だが、生産すべてが、富める者の支配に置かれ、いまの経済システムが産む、景気変動の調節弁に多くの低賃金の非正規雇用が都合よく使われているから。いろんな面から、変革が必要な時代なのだろう。
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