tinc さんの日記
2021
5月
16
(日)
23:27
本文
例えばあるレストランに予約無しで入店し席が空くのを待つことにしたとする。待合スペースにもそれなりの席数があり、自分が誰よりも先で誰よりも後なのか分かりにくいとなると、自分より後に来たはずの人が先に呼ばれて席に着くという状況が発生することがある。後から来た人は本当はもっと前に来ていて一時離席していたのかもしれない。実際のところは分からない。
店側が待っている人々の把握に成功しているのか失敗しているのかは知りようがない。自分が容貌等から値踏みを受けたか、遠回しに退店を願われているという可能性も考えられるので、問い合わせをするか、抗議に出るか、立ち去って別の店を探すかの判断を行う必要に迫られる。
私は「無能で説明のつくものは悪意に帰すべきでない」という原則を聞いたことがある。何者かが別の誰かへ損害を与えた経緯や原因等の追求が困難である場合に、この原則に立てばそれは過失あるいは失敗であり故意の結果ではなかったのだという結論に傾くのだと思う。法律の文脈で云う無罪の推定と類似する概念なのかもしれない。
上のレストランの例に当てはめようと思うと、多くは「店側は多忙等の原因で待合スペースの状況把握に失敗しているので自分は順番を飛ばされた」という認識の形成が想定されるのではないかと思う。相手に悪意が無く能力が不足していたというその認識からどのような行動に出るかは別の判断であるが、「失敗の被害に遭った」ことと「故意に害された」こととで事象の受け止め方に大小の差異は生じるだろう。
この原則は騒動を減らし営業活動を円滑に実行することを援助するという効能がある一方で、市井の個々人が現実の生活の中で運用することは困難でもあると私は考えている。害されたほうはそれが無能に由来するか悪意から来るかに関わらず同じ損害を受けることも多い(レストランの例で云うと待ち時間等)し、悪意から来る悪よりも無能に起因する悪のほうが質が悪いということはざらにある(無能であることは本人の選択によらないので、改善を望むことも責任を追及することも悪意由来の場合と比して格段に難しい)。市井の個々人、中でも特に私のように無能の部類に入る人はこの原則により保護されている局面も多いはずなのであるが、いざ自身が被害を受ける立場になると自身が不利となるため素直に受け入れられないこともあるだろう。犯罪の被害者が無罪の推定の原則を嫌うのと似ていると思う。
自分が被害を受けたという実感が一つの事実、あるいは事実と同等の何かとして扱われるのと異なり、他人の思惑は想像の範囲を出ない。この非対称性が原則の制定を必要とする一因となっている。
私は他人の行いを見て「何と悪いことをするのだろう。あの人には関わらないようにしよう」と思うことが珍しくなくある。犯罪に対し厳罰化を望む声が絶えないように、無罪の推定も「無能で説明のつくことを悪意に帰すべきでない」という原則も私の中では殆ど浸透しておらずましてや機能することなど望むべくもない。その機能を望むのは自分が追及される時なのであるが、その時には私が単に無能な他人を悪人と見なしてきたが如く、私は無能であろうがなかろうが他人にとって既に悪人である。
信じ合い許し合って生きよう、などと簡単に言うことはできないが、自分だって大したものではないのだということは思い出さねばならない。世の中悪人ばかりだと思うなら自分もその構成員なのである。他人の振る舞いを見咎めるのに割く資源は私にはあまりなさそうだ。
店側が待っている人々の把握に成功しているのか失敗しているのかは知りようがない。自分が容貌等から値踏みを受けたか、遠回しに退店を願われているという可能性も考えられるので、問い合わせをするか、抗議に出るか、立ち去って別の店を探すかの判断を行う必要に迫られる。
私は「無能で説明のつくものは悪意に帰すべきでない」という原則を聞いたことがある。何者かが別の誰かへ損害を与えた経緯や原因等の追求が困難である場合に、この原則に立てばそれは過失あるいは失敗であり故意の結果ではなかったのだという結論に傾くのだと思う。法律の文脈で云う無罪の推定と類似する概念なのかもしれない。
上のレストランの例に当てはめようと思うと、多くは「店側は多忙等の原因で待合スペースの状況把握に失敗しているので自分は順番を飛ばされた」という認識の形成が想定されるのではないかと思う。相手に悪意が無く能力が不足していたというその認識からどのような行動に出るかは別の判断であるが、「失敗の被害に遭った」ことと「故意に害された」こととで事象の受け止め方に大小の差異は生じるだろう。
この原則は騒動を減らし営業活動を円滑に実行することを援助するという効能がある一方で、市井の個々人が現実の生活の中で運用することは困難でもあると私は考えている。害されたほうはそれが無能に由来するか悪意から来るかに関わらず同じ損害を受けることも多い(レストランの例で云うと待ち時間等)し、悪意から来る悪よりも無能に起因する悪のほうが質が悪いということはざらにある(無能であることは本人の選択によらないので、改善を望むことも責任を追及することも悪意由来の場合と比して格段に難しい)。市井の個々人、中でも特に私のように無能の部類に入る人はこの原則により保護されている局面も多いはずなのであるが、いざ自身が被害を受ける立場になると自身が不利となるため素直に受け入れられないこともあるだろう。犯罪の被害者が無罪の推定の原則を嫌うのと似ていると思う。
自分が被害を受けたという実感が一つの事実、あるいは事実と同等の何かとして扱われるのと異なり、他人の思惑は想像の範囲を出ない。この非対称性が原則の制定を必要とする一因となっている。
私は他人の行いを見て「何と悪いことをするのだろう。あの人には関わらないようにしよう」と思うことが珍しくなくある。犯罪に対し厳罰化を望む声が絶えないように、無罪の推定も「無能で説明のつくことを悪意に帰すべきでない」という原則も私の中では殆ど浸透しておらずましてや機能することなど望むべくもない。その機能を望むのは自分が追及される時なのであるが、その時には私が単に無能な他人を悪人と見なしてきたが如く、私は無能であろうがなかろうが他人にとって既に悪人である。
信じ合い許し合って生きよう、などと簡単に言うことはできないが、自分だって大したものではないのだということは思い出さねばならない。世の中悪人ばかりだと思うなら自分もその構成員なのである。他人の振る舞いを見咎めるのに割く資源は私にはあまりなさそうだ。
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