湘南のカモメ さんの日記
2021
5月
15
(土)
10:11
本文
一生のことですので、長文になってしまいました^^;
現代において、サラリーマンが脱サラして、正式に法務局へ会社の登記をして船出をし、成功するということが
どれだけ大変なことなのか?
私自身も知りませんでしたが、これをお読みになっている殆どの方には想像もつかないことだろうと思います。
親が商売人であったら多少は違ったかも知れません。
しかし、私の父は新聞記者で暦としたサラリーマンでした。
家内の父は商店を何軒も経営するバリバリの経営者でしたが、生憎助言も貰えなければ商売のイロハを教えてくれもしませんでした。
その訳は、「建築関係は危ない!足場の上から何かを落されて大怪我をした人を知っているからやめろ!」の一点張り。一辺倒でした。
そして「朝お店のシャッターを開けたら、お客がカネをもってくる商店をやれ」の一点張り。
脱サラして前途洋々だと思ったのは、会社の登記を済ませるまで。
脱サラしたばかりで商売ごとに無知な若造なんかに仕事を下さる方は皆無でした。
会社を興すのに手持ち資金の殆どを使い果たしていましたので、それからの約1年半という長い間をどのようにして
喰い繋いで来たのか?今となってはその記憶も定かではありません。
脱サラしたのは下の子供が乳呑み児だった生後まだ4ヶ月目のことでした。
社長とは名ばかりで、正に孤軍奮闘!
桜が咲き そして散っても全く目に入らなかった年が延々と続きました。
ようやく手に入ったお金も、材料の仕入先や職人さんに支払ったら私達の家族が生きていくお金は残らず、喰うや喰わずの生活が随分長い間続きました。
明日食べる為のお金がない!そう思うと居ても立っても居られず、夜は明け方まで手書きのチラシを作り、夜が明けるとそれを持って営業活動に精を出す日々が続きました。
頑張りに頑張りを重ねて、ようやく県と或る大手のデベロッパーがタッグを組んだ大事業に参加することができたのは上の子が高校生の頃で、赤信号が灯りかけていた息子の大学進学に青いランプが灯って一人涙したものでした。
どんなに貧しても手っ取り早くどこか別な会社の<下請け>に走ることなく、ずっと<元請企業>として頑張って来ました。
家内には大きな心配と心労をかけましたが、このとき初めて大きな花を咲かせることが出来た!と実感しました。
それからは会社を大きくすることに専念して、やっと一人前の社長として業界の末席を汚させて貰えるまでに成長することができ、
今ではちょっとやそっとの波が来ても、倒産の心配をすることもなくなりました。
しかし 安心も束の間、今から12年ほど前に苦労をかけた家内に大きな病が襲いかかりました。
お医者から「何か大きなストレスを受けましたか?」と聞かれたとかで、病を得てからというもの家内は事あるごとに「あなたのせいで病気になった!」と喰ってかかります。
しかし<私が撒いた種がこんな形で実ったのだ!>と思い、家内の言葉に反論することなく、仕事に加えて家事の一切を引き受けています。
馬車馬の如く働き続けた結果がこれでは余りにも惨めだと思う方が居るかもしれませんが、これが私に課された運命だったのだ!と思って、現在の日曜日には家庭菜園で野菜作りに精を出し、病気の家内に少しでも無農薬の新鮮な野菜を食べさせたい!と願って腰の痛さに耐えています。
普段はシモネタのブログをUPしたりするスケベな男にもこんな一面がありました(笑)
息子に会社の経営権を渡して数年、未だに月~土まで週6で仕事に精を出しています。
このまま<働き蜂>で一生を終わるかもしれません。
が、子供達を大学に通わせ、恥ずかしくない結婚式を挙げさせて 土地を手に入れて家を建て、ある程度の車にも乗れるようになりました。
子供達はそれぞれ巣立ち、新たな家庭を作って子育てに専念しています。
働き蜂、結構じゃないですか?^^
男として「媚びず・頼らず・つるまず」の<三ずの川岸>づたいに歩いてきた男の姿が、
今、ようやく<いぶし銀>になって来た・・・と思っています。
脱サラした頃には、もっと早く燦然と輝きたい!と思っていたのですが(笑笑)
現代において、サラリーマンが脱サラして、正式に法務局へ会社の登記をして船出をし、成功するということが
どれだけ大変なことなのか?
私自身も知りませんでしたが、これをお読みになっている殆どの方には想像もつかないことだろうと思います。
親が商売人であったら多少は違ったかも知れません。
しかし、私の父は新聞記者で暦としたサラリーマンでした。
家内の父は商店を何軒も経営するバリバリの経営者でしたが、生憎助言も貰えなければ商売のイロハを教えてくれもしませんでした。
その訳は、「建築関係は危ない!足場の上から何かを落されて大怪我をした人を知っているからやめろ!」の一点張り。一辺倒でした。
そして「朝お店のシャッターを開けたら、お客がカネをもってくる商店をやれ」の一点張り。
脱サラして前途洋々だと思ったのは、会社の登記を済ませるまで。
脱サラしたばかりで商売ごとに無知な若造なんかに仕事を下さる方は皆無でした。
会社を興すのに手持ち資金の殆どを使い果たしていましたので、それからの約1年半という長い間をどのようにして
喰い繋いで来たのか?今となってはその記憶も定かではありません。
脱サラしたのは下の子供が乳呑み児だった生後まだ4ヶ月目のことでした。
社長とは名ばかりで、正に孤軍奮闘!
桜が咲き そして散っても全く目に入らなかった年が延々と続きました。
ようやく手に入ったお金も、材料の仕入先や職人さんに支払ったら私達の家族が生きていくお金は残らず、喰うや喰わずの生活が随分長い間続きました。
明日食べる為のお金がない!そう思うと居ても立っても居られず、夜は明け方まで手書きのチラシを作り、夜が明けるとそれを持って営業活動に精を出す日々が続きました。
頑張りに頑張りを重ねて、ようやく県と或る大手のデベロッパーがタッグを組んだ大事業に参加することができたのは上の子が高校生の頃で、赤信号が灯りかけていた息子の大学進学に青いランプが灯って一人涙したものでした。
どんなに貧しても手っ取り早くどこか別な会社の<下請け>に走ることなく、ずっと<元請企業>として頑張って来ました。
家内には大きな心配と心労をかけましたが、このとき初めて大きな花を咲かせることが出来た!と実感しました。
それからは会社を大きくすることに専念して、やっと一人前の社長として業界の末席を汚させて貰えるまでに成長することができ、
今ではちょっとやそっとの波が来ても、倒産の心配をすることもなくなりました。
しかし 安心も束の間、今から12年ほど前に苦労をかけた家内に大きな病が襲いかかりました。
お医者から「何か大きなストレスを受けましたか?」と聞かれたとかで、病を得てからというもの家内は事あるごとに「あなたのせいで病気になった!」と喰ってかかります。
しかし<私が撒いた種がこんな形で実ったのだ!>と思い、家内の言葉に反論することなく、仕事に加えて家事の一切を引き受けています。
馬車馬の如く働き続けた結果がこれでは余りにも惨めだと思う方が居るかもしれませんが、これが私に課された運命だったのだ!と思って、現在の日曜日には家庭菜園で野菜作りに精を出し、病気の家内に少しでも無農薬の新鮮な野菜を食べさせたい!と願って腰の痛さに耐えています。
普段はシモネタのブログをUPしたりするスケベな男にもこんな一面がありました(笑)
息子に会社の経営権を渡して数年、未だに月~土まで週6で仕事に精を出しています。
このまま<働き蜂>で一生を終わるかもしれません。
が、子供達を大学に通わせ、恥ずかしくない結婚式を挙げさせて 土地を手に入れて家を建て、ある程度の車にも乗れるようになりました。
子供達はそれぞれ巣立ち、新たな家庭を作って子育てに専念しています。
働き蜂、結構じゃないですか?^^
男として「媚びず・頼らず・つるまず」の<三ずの川岸>づたいに歩いてきた男の姿が、
今、ようやく<いぶし銀>になって来た・・・と思っています。
脱サラした頃には、もっと早く燦然と輝きたい!と思っていたのですが(笑笑)
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