tinc さんの日記
2021
5月
10
(月)
20:49
本文
身体を鍛えていたり仕事に邁進したりしている人から多く聞かれる言葉として、「昔はこんなものじゃなかった」というものがある。身体も周囲の状況も変化してゆくものなのだから生じる結果もその時々で変化するのが当然なのではないか、と私は不思議に思いながら聞いていたのであるが、発言している当人たちとしては自身の能力等の変化に危機感や悲しみを覚えているのではないかと最近になって想像するようになった。
ところで上の言葉は美貌に関して言われるのもよく耳にする。この場合は私にはまだ想像が難しい。身体的な能力は持ち上げられる物体の重さや走る速さ等で、仕事の能力は売上の額や廃棄製品の割合等である程度までは定量的に計測して比較することができる一方で、美貌というものはきわめて主観的で非定量的であるので何がどうなっていたら美貌が高いとか低いとか云えるのかが全く判然としない。例えば私は皮膚に皺やたるみが生じるとか頭髪の数が少なくなるとかの変化が嫌われやすいのを何となく知っているが、多くの人々がそれらを嫌う理由については一切を知らない。またそれらの要素を私が嫌っていないことを言うと驚く人のいることがたいへん奇妙に思われる。なぜ何かを嫌うとか嫌わないとかいうことを他人と揃えなければならないのかと思う。
かく云う私自身も世間に広く普及した美的感覚からすると悲惨な容姿をしているが、自分の容姿を特段嫌いではない。自分について嫌うところは他にごまんとあるから容姿のことまで嫌うような余裕は無い。
私は指示や管理というものを毛嫌いしている。中でも「あれを言え、これを言うな」とか「こう考えろ、ああは考えるな」というような言論や思想を制限する類のものを蛇蝎の如く嫌っている。何を美とし何を嫌うかを自分で決められないのなら、美しいものに触れる機会も嫌悪の感情そのものもその口出しをする人へ返上しようと思う。
ある人は昔ほどの筋力を持たず、ある人は昔ほど裕福でなく、ある人は昔ほど異性からちやほやされないかもしれない。
しかし美しくあることが何かそういうものにかかっているということに私は釈然としない。美とはそういうものだろうか。あなたは美しいのではなかったのか?世間が何と言おうとも、このぼくが何と言おうとも。
ところで上の言葉は美貌に関して言われるのもよく耳にする。この場合は私にはまだ想像が難しい。身体的な能力は持ち上げられる物体の重さや走る速さ等で、仕事の能力は売上の額や廃棄製品の割合等である程度までは定量的に計測して比較することができる一方で、美貌というものはきわめて主観的で非定量的であるので何がどうなっていたら美貌が高いとか低いとか云えるのかが全く判然としない。例えば私は皮膚に皺やたるみが生じるとか頭髪の数が少なくなるとかの変化が嫌われやすいのを何となく知っているが、多くの人々がそれらを嫌う理由については一切を知らない。またそれらの要素を私が嫌っていないことを言うと驚く人のいることがたいへん奇妙に思われる。なぜ何かを嫌うとか嫌わないとかいうことを他人と揃えなければならないのかと思う。
かく云う私自身も世間に広く普及した美的感覚からすると悲惨な容姿をしているが、自分の容姿を特段嫌いではない。自分について嫌うところは他にごまんとあるから容姿のことまで嫌うような余裕は無い。
私は指示や管理というものを毛嫌いしている。中でも「あれを言え、これを言うな」とか「こう考えろ、ああは考えるな」というような言論や思想を制限する類のものを蛇蝎の如く嫌っている。何を美とし何を嫌うかを自分で決められないのなら、美しいものに触れる機会も嫌悪の感情そのものもその口出しをする人へ返上しようと思う。
ある人は昔ほどの筋力を持たず、ある人は昔ほど裕福でなく、ある人は昔ほど異性からちやほやされないかもしれない。
しかし美しくあることが何かそういうものにかかっているということに私は釈然としない。美とはそういうものだろうか。あなたは美しいのではなかったのか?世間が何と言おうとも、このぼくが何と言おうとも。
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