ひろひろ48 さんの日記
2021
4月
29
(木)
01:31
本文
たしか、高専の4年か5年ころ、フォークソングがはやりだしたころ。それまでは、ラジオから流れてくる洋楽や、歌謡曲しかなかったかな。まだ白黒のテレビでは、よく親父が近くの喫茶店で、相撲や野球、プロレスの実況中継をみるために連れて行ってくれ、熱いホットミルクをのませてくれた。家にその白黒テレビが届いたのは、すこしたってから。あのころは、高くて月賦、いまでいうローン、でしか買えなかった時代。演芸、落語や、松竹新喜劇、あのころは渋谷天外と藤山寛美の時代。やっとこ芦屋雁之助、小雁が舞台をにぎわし、ずり落ち眼鏡で大村崑が大人気だったころ。ザ・ピーナッツとクレイジー・キャッツの夢で逢いましょうもよく見ていた。ラジオでは、電話が一般家庭に普及しはじめてて、電話で歌を、友だちにプレゼントする「電リク」こと「電話リクエスト」が大人気だった。
フォークルこと、フォーク・クルセダーズというたしか京都の大学生中心のバンドが「帰ってきたヨッパライ」で大ブレークしてた。高石智也のライブを、ラジオの抽選かなにかで神戸のカフェの見に行けた。そして「イムジン河」が流れ、当時の戦後分断され、悲惨な戦争があり、南北に分断された朝鮮半島の歌が、ラジオから流れてきた。ただただ悲しくも美しい歌だった。そして突然にその歌が流れなくなった。。もともと北朝鮮の人が作った歌で、著作権のこともあり、なんでも訳詞と3番目の歌詞にクレームがつき、歌えなくなったらしい。そんな時代。
朝刊にながく連載されている「昭和遠近」というコラム。短歌に見る時代相という副題がある。先週4月20日の記事を紹介します。
イムジン河「懐かしさ 国境超えて」島田修三(歌人、愛知淑徳大学長)
くりかえしくり返し聴く なつかしき「イムジン河」は
われの十代
喜多弘樹の歌集「さびしき蛞蝓(なめくじ)」(2006年)の一首。名曲「イムジン河」が全国的に話題になるのは昭和43(1968)年頃だ。本来は昭和32年(1957年)北朝鮮の音楽家により作詞作曲された楽曲。それを知らずアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズが歌っていた。正確には、「イムジン河」の2番を作詞し、フォーク・クルセダーズに曲とともに伝えた松山猛が最初は作者不詳の民謡だと誤解していたのだ。
この辺の経緯は松山の著作「少年Mのイムジン河」(2002年)に詳しい。松山の通う京都の中学校は地元の朝鮮中高級学校と喧嘩が絶えず、松山が友人とサッカーの親善試合を申し込みに中高級学校を訪れる。そのとき、校内に「イムジン河」の歌声が流れていた。その旋律に胸を打たれた松山が音楽友達の朝鮮学校生から旋律と歌詞(一番)を教わり、2番の歌詞を創作、フォーク・クルセダーズに伝授した。井筒和幸の映画「パッチギ!」(05年)は喧嘩に明け暮れる日本人と在日朝鮮人の少年少女らの対立と友情の物語で、美しく豊かな「イムジン河」の旋律が背後に流れる。松山の著書がベースになった映画。
大ヒットした「帰ってきたヨッパライ」に続いてレコードの予定だった「イムジン河」は、朝鮮総連の抗議により販売されなかった。フォーク・クルセダーズの歌う2番の歌詞が原曲と異なる点も問題になったようだ。南北国境近くを流れるイムジン河の流れに遠い南(韓国)の故郷を偲ぶ一番はほぼ同じだが、2番は凶作続きで貧しい南を早く豊かな北と統合すべきだとするプロパガンダ。松山の歌詞は誰が祖国を引き裂いたのかと問う。むろん朝鮮戦争である。
政治的な思惑が入りこんで厄介な曲だが、知る人ぞ知る曲として歌い継がれ、今でも私はふと美しい旋律をハミングしていたりする。同世代の喜多もそうなのだろう。北朝鮮にも韓国にも、「イムジン河」の旋律に国境を超えて、懐かしさを覚える人が大勢いるにちがいない。
フォークルこと、フォーク・クルセダーズというたしか京都の大学生中心のバンドが「帰ってきたヨッパライ」で大ブレークしてた。高石智也のライブを、ラジオの抽選かなにかで神戸のカフェの見に行けた。そして「イムジン河」が流れ、当時の戦後分断され、悲惨な戦争があり、南北に分断された朝鮮半島の歌が、ラジオから流れてきた。ただただ悲しくも美しい歌だった。そして突然にその歌が流れなくなった。。もともと北朝鮮の人が作った歌で、著作権のこともあり、なんでも訳詞と3番目の歌詞にクレームがつき、歌えなくなったらしい。そんな時代。
朝刊にながく連載されている「昭和遠近」というコラム。短歌に見る時代相という副題がある。先週4月20日の記事を紹介します。
イムジン河「懐かしさ 国境超えて」島田修三(歌人、愛知淑徳大学長)
くりかえしくり返し聴く なつかしき「イムジン河」は
われの十代
喜多弘樹の歌集「さびしき蛞蝓(なめくじ)」(2006年)の一首。名曲「イムジン河」が全国的に話題になるのは昭和43(1968)年頃だ。本来は昭和32年(1957年)北朝鮮の音楽家により作詞作曲された楽曲。それを知らずアマチュア時代のザ・フォーク・クルセダーズが歌っていた。正確には、「イムジン河」の2番を作詞し、フォーク・クルセダーズに曲とともに伝えた松山猛が最初は作者不詳の民謡だと誤解していたのだ。
この辺の経緯は松山の著作「少年Mのイムジン河」(2002年)に詳しい。松山の通う京都の中学校は地元の朝鮮中高級学校と喧嘩が絶えず、松山が友人とサッカーの親善試合を申し込みに中高級学校を訪れる。そのとき、校内に「イムジン河」の歌声が流れていた。その旋律に胸を打たれた松山が音楽友達の朝鮮学校生から旋律と歌詞(一番)を教わり、2番の歌詞を創作、フォーク・クルセダーズに伝授した。井筒和幸の映画「パッチギ!」(05年)は喧嘩に明け暮れる日本人と在日朝鮮人の少年少女らの対立と友情の物語で、美しく豊かな「イムジン河」の旋律が背後に流れる。松山の著書がベースになった映画。
大ヒットした「帰ってきたヨッパライ」に続いてレコードの予定だった「イムジン河」は、朝鮮総連の抗議により販売されなかった。フォーク・クルセダーズの歌う2番の歌詞が原曲と異なる点も問題になったようだ。南北国境近くを流れるイムジン河の流れに遠い南(韓国)の故郷を偲ぶ一番はほぼ同じだが、2番は凶作続きで貧しい南を早く豊かな北と統合すべきだとするプロパガンダ。松山の歌詞は誰が祖国を引き裂いたのかと問う。むろん朝鮮戦争である。
政治的な思惑が入りこんで厄介な曲だが、知る人ぞ知る曲として歌い継がれ、今でも私はふと美しい旋律をハミングしていたりする。同世代の喜多もそうなのだろう。北朝鮮にも韓国にも、「イムジン河」の旋律に国境を超えて、懐かしさを覚える人が大勢いるにちがいない。
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