tinc さんの日記
2021
2月
20
(土)
10:46
本文
仮に良い事物や状態があったとして、その良さを実感できるか否かということが別の問題としてしばしば顔を出すものであると思う。優れた製品や作品を全て好きになるわけではないし、多くの人から好かれている人を自分も必ず好きになるわけではない。人間ドックへ行って特段の所見無しとの結果を受け取っても本人としては不調を感じていたり特定の項目を精密に検査して実際に不調の原因の見つかることもあるように、良い状態や事物という判断自体が限定的なものであることも世には多く、「良い」ことと「良いと思われる」ことの間には常に大小の乖離がある。
別の例を云うと、自身の美貌に対してきわめて高い要求を抱く人が自身の身体の粗探しをいつまでも終えないことがある。これには本人が実際の容貌が自身の理想を満たすことを前提として減点方式で採点しており、本人が満点にあくまで固執すること、また美の基準が定量的でないことから採点基準が常に変化し採点が終了しない事態であるという解釈がある。あるいは美貌を得ることが当初の目的であったのが、次第に採点自体を目的とする姿勢に変化したものであるという見方がある。心の作用に関連する例であるため一元的で包括的な描写は困難であるが本人にとっては美貌が自身の全存在を左右する一大事であると認識されているためそこから離れることが難しく、強い不安や恐怖から生活に支障を来し、医療的にも病的な状態へと進行することにもなりうるから馬鹿にするようなものではない。「あなたは容貌に充分に恵まれているのであるから心配を止めて生活に戻れ」という類の助言が比較的簡単に投げかけられるのであるが、実はこれが効力を発揮するのは言う側が本人との間にきわめて強力な信頼関係を構築している場合に限定される。恐慌の中でもその人の言うことを信じることができるというほど強固な信頼関係はそれほど多く存在しないので、言う側は助言のつもりでも何の助力も生まないどころか本人にとって害になる場合も多い。一見誰にでも思いつくような助言で解決を見ない事態であるからこそ本人は悩み苦しんでいるのである。己の容貌への満足は他人から得られるものではないのが通常で、現実の自分の良さを感じるようになるにはしばしば長い時間や専門的援助を要する。
何らかの良さが先に存在してそれを人が感じたり感じなかったりするものであるという理屈が成り立つ一方で、逆に先立つのは実感のほうであるという意見も成立する。親が心血を注いで子どもを養育した場合にも、子どもは自身が充分に愛情を受け保護され教育されたという実感を得る場合と得ない場合がある。この場合にも「良い養育が施されたにも関わらず子どもが勝手な不平を並べる」と子どもの責任を追求する事態が散見されるがそれは多くの場合説得力に欠ける。無知無力の状態で生まれてくるのが子どもであるので、何が良い養育であって親の現実の養育に何が不足していたかについて相互の検証が成立する状態にまで養育するのは通常親および外部の社会の責任である。
この場合でさえ例外が多い。子どもの知能が低い等の場合もあるしそもそも完璧な親や社会など存在しないためその養育に瑕疵があってむしろ普通だからである。例外のみで成り立っているということもできる。
実感は常に例外的であり、得ようとして得られることの少ないものであるように思われる。だから私はひとが不平を言うことを咎めるにせよひとへ助言を試みるにせよ慎重でありたく思う。私は日頃あまり考えずに何かを言ってしまいがちなのであるが、相手のことを考える努力を惜しむくらいならその相手と関わるべきではない。
別の例を云うと、自身の美貌に対してきわめて高い要求を抱く人が自身の身体の粗探しをいつまでも終えないことがある。これには本人が実際の容貌が自身の理想を満たすことを前提として減点方式で採点しており、本人が満点にあくまで固執すること、また美の基準が定量的でないことから採点基準が常に変化し採点が終了しない事態であるという解釈がある。あるいは美貌を得ることが当初の目的であったのが、次第に採点自体を目的とする姿勢に変化したものであるという見方がある。心の作用に関連する例であるため一元的で包括的な描写は困難であるが本人にとっては美貌が自身の全存在を左右する一大事であると認識されているためそこから離れることが難しく、強い不安や恐怖から生活に支障を来し、医療的にも病的な状態へと進行することにもなりうるから馬鹿にするようなものではない。「あなたは容貌に充分に恵まれているのであるから心配を止めて生活に戻れ」という類の助言が比較的簡単に投げかけられるのであるが、実はこれが効力を発揮するのは言う側が本人との間にきわめて強力な信頼関係を構築している場合に限定される。恐慌の中でもその人の言うことを信じることができるというほど強固な信頼関係はそれほど多く存在しないので、言う側は助言のつもりでも何の助力も生まないどころか本人にとって害になる場合も多い。一見誰にでも思いつくような助言で解決を見ない事態であるからこそ本人は悩み苦しんでいるのである。己の容貌への満足は他人から得られるものではないのが通常で、現実の自分の良さを感じるようになるにはしばしば長い時間や専門的援助を要する。
何らかの良さが先に存在してそれを人が感じたり感じなかったりするものであるという理屈が成り立つ一方で、逆に先立つのは実感のほうであるという意見も成立する。親が心血を注いで子どもを養育した場合にも、子どもは自身が充分に愛情を受け保護され教育されたという実感を得る場合と得ない場合がある。この場合にも「良い養育が施されたにも関わらず子どもが勝手な不平を並べる」と子どもの責任を追求する事態が散見されるがそれは多くの場合説得力に欠ける。無知無力の状態で生まれてくるのが子どもであるので、何が良い養育であって親の現実の養育に何が不足していたかについて相互の検証が成立する状態にまで養育するのは通常親および外部の社会の責任である。
この場合でさえ例外が多い。子どもの知能が低い等の場合もあるしそもそも完璧な親や社会など存在しないためその養育に瑕疵があってむしろ普通だからである。例外のみで成り立っているということもできる。
実感は常に例外的であり、得ようとして得られることの少ないものであるように思われる。だから私はひとが不平を言うことを咎めるにせよひとへ助言を試みるにせよ慎重でありたく思う。私は日頃あまり考えずに何かを言ってしまいがちなのであるが、相手のことを考える努力を惜しむくらいならその相手と関わるべきではない。
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