ひろひろ48 さんの日記
2021
1月
28
(木)
02:38
本文
26日の夕刊の記事「クロスロード人生のとき」は、歌、歌い手のはなし。加藤登紀子さん、歌手生活55周年だそうです。もちろん歌手として「知床旅情」「百万本のバラ」とかでご存じの方も多いと思います。歌手になるいきさつから、東大全共闘、全学連委員長、藤本との出会い、結婚、死別、そして、77歳、歌手生活55周年。
夫の死・・嗚咽が喜びに、愛の讃歌
1963年10月11日、フランスの国民的象徴、シャンソン歌手エディット・ピアフが47年の波乱の人生に幕を閉じた。19歳の加藤登紀子は、4万人が詰めかけ「愛の讃歌」が繰り返し流れる葬儀を伝えるテレビ画面に見入っていた。
「ピアフを知ったから歌手になった、歌手になったから結婚した。ピアフとの出会いが私の女としての起点、歴史の始まりだった」
学生運動の指導者だった藤本敏夫(故人)との獄中結婚。だが、それもピアフと出会い、歌手になったから。歌手生活55周年を迎え、人生の岐路を振り返る。
ボイコット
東大在学中にシャンソンコンクールで優勝、歌手としてデビューし、日本レコード大賞新人賞も獲得していた加藤は既にアイドルだった。在学6年目の卒業式当日。
女性週刊誌から記念グラビアを撮影するため、振り袖姿を注文されていた。だがその日、加藤は卒業式をボイコット、安田講堂前の座り込みに加わった。68年3月、歴史的な東大全共闘運動の幕開けだった。
記事で見た全学連委員長の藤本から「学生集会で歌ってほしい」と依頼された。加藤は「政治に歌を利用されたくない」と断ったが、それをきっかけに交際が始まる。3日後に再開し屋台を飲み歩き、生まれて初めてのキス、体を離した藤本が突然、歌いだした。初めて聴いたこの歌が、後に加藤の大ヒット曲となる「知床旅情」だった。
翌69年1月、学生が立てこもていた安田講堂は機動隊の突入で”落城”。講堂を取り巻く群衆の中にいた加藤は「国家がはらむ力のおそろしさと残酷さをまざまざと感じた」と回想する。
藤本は東京拘置所に入っており頼るべき人はいない。行き場のない孤独感を歌ったのが「ひとり寝の子守唄」
だ。この曲を聴いた作家、立原正秋は「中世の今様のような悲壮感が流れている」と評した。加藤はレコード大賞歌唱賞を受賞する。
72年5月、3年8ヶ月の実刑判決を受けて中野刑務所に服役していた藤本と結婚、3人の娘の母親となった。
最高の一瞬
「ピアフは人間がいかに素晴らしいかを求め、恋愛も最高の一瞬を残そうとした。女にとって「生き切る」とは何かを教えてくれた」。ピアフへの熱い思いを語る。
「愛の讃歌」はピアフが恋人のボクサー世界チャンピオン、マルセル・セルダンとの愛を自身で作詞、世界で親しまれるシャンソンの名曲だ。
ピアフから「この歌を聴きにきて」と言われセルダンが乗った飛行機が遭難、行方不明に。「ここに歌われているのは恋人を亡くして初めて果たし得た恋だった」と加藤。
加藤は「徹底的にピアフの生涯を歌いたい」と自分で詩を訳した。大事な持ち歌だったが、藤本の死後、歌おうとすると体の底から嗚咽がこみ上げ歌えなくなった。
しかし「ピアフが恋人の死後もこの歌を歌い続けたように、永訣によって始まる愛があることに気付き、はじめて本気でこの歌と向き合った」
歌手生活40周年の翌年2006年に初めてレコーディング。「抑えきれなかった嗚咽が、そのまま喜びに変わる瞬間だった」と振り返る。
<中略>
1960年代後半の政治闘争の写真を見せてくれた。ヘルメットをかぶって顔をタオルで覆い、手には「ゲバ棒」を持つデモ隊の先頭に、ひとりだけヘルメットをかぶらず手に何も持たない男が写っている。数々の闘争を指導した藤本の姿だ。
「機動隊に殴りたいなら殴れよ、ノーヘルで何も持たない人間を殴れるのか、という思いだったのかしら」と加藤。「格好つけるし、実際に格好いい男だったのよ」
2002年7月31日、藤本は「もういだろう」と自ら酸マスクを外し、旅立った。
「もしもあなたが死んで、私を捨てる時も、私はかまわない、あなたと行くから・・」
77歳を迎えた20年12月のコンサート、加藤は「愛の讃歌」を高らかに歌い上げた。
<引用以上>
いろんな表現の仕方があるが、なかでも歌は、その言葉とメロディーで、心のひだに沁みとおってくる。こんな思いで、こんな風に歌えたら・・・
夫の死・・嗚咽が喜びに、愛の讃歌
1963年10月11日、フランスの国民的象徴、シャンソン歌手エディット・ピアフが47年の波乱の人生に幕を閉じた。19歳の加藤登紀子は、4万人が詰めかけ「愛の讃歌」が繰り返し流れる葬儀を伝えるテレビ画面に見入っていた。
「ピアフを知ったから歌手になった、歌手になったから結婚した。ピアフとの出会いが私の女としての起点、歴史の始まりだった」
学生運動の指導者だった藤本敏夫(故人)との獄中結婚。だが、それもピアフと出会い、歌手になったから。歌手生活55周年を迎え、人生の岐路を振り返る。
ボイコット
東大在学中にシャンソンコンクールで優勝、歌手としてデビューし、日本レコード大賞新人賞も獲得していた加藤は既にアイドルだった。在学6年目の卒業式当日。
女性週刊誌から記念グラビアを撮影するため、振り袖姿を注文されていた。だがその日、加藤は卒業式をボイコット、安田講堂前の座り込みに加わった。68年3月、歴史的な東大全共闘運動の幕開けだった。
記事で見た全学連委員長の藤本から「学生集会で歌ってほしい」と依頼された。加藤は「政治に歌を利用されたくない」と断ったが、それをきっかけに交際が始まる。3日後に再開し屋台を飲み歩き、生まれて初めてのキス、体を離した藤本が突然、歌いだした。初めて聴いたこの歌が、後に加藤の大ヒット曲となる「知床旅情」だった。
翌69年1月、学生が立てこもていた安田講堂は機動隊の突入で”落城”。講堂を取り巻く群衆の中にいた加藤は「国家がはらむ力のおそろしさと残酷さをまざまざと感じた」と回想する。
藤本は東京拘置所に入っており頼るべき人はいない。行き場のない孤独感を歌ったのが「ひとり寝の子守唄」
だ。この曲を聴いた作家、立原正秋は「中世の今様のような悲壮感が流れている」と評した。加藤はレコード大賞歌唱賞を受賞する。
72年5月、3年8ヶ月の実刑判決を受けて中野刑務所に服役していた藤本と結婚、3人の娘の母親となった。
最高の一瞬
「ピアフは人間がいかに素晴らしいかを求め、恋愛も最高の一瞬を残そうとした。女にとって「生き切る」とは何かを教えてくれた」。ピアフへの熱い思いを語る。
「愛の讃歌」はピアフが恋人のボクサー世界チャンピオン、マルセル・セルダンとの愛を自身で作詞、世界で親しまれるシャンソンの名曲だ。
ピアフから「この歌を聴きにきて」と言われセルダンが乗った飛行機が遭難、行方不明に。「ここに歌われているのは恋人を亡くして初めて果たし得た恋だった」と加藤。
加藤は「徹底的にピアフの生涯を歌いたい」と自分で詩を訳した。大事な持ち歌だったが、藤本の死後、歌おうとすると体の底から嗚咽がこみ上げ歌えなくなった。
しかし「ピアフが恋人の死後もこの歌を歌い続けたように、永訣によって始まる愛があることに気付き、はじめて本気でこの歌と向き合った」
歌手生活40周年の翌年2006年に初めてレコーディング。「抑えきれなかった嗚咽が、そのまま喜びに変わる瞬間だった」と振り返る。
<中略>
1960年代後半の政治闘争の写真を見せてくれた。ヘルメットをかぶって顔をタオルで覆い、手には「ゲバ棒」を持つデモ隊の先頭に、ひとりだけヘルメットをかぶらず手に何も持たない男が写っている。数々の闘争を指導した藤本の姿だ。
「機動隊に殴りたいなら殴れよ、ノーヘルで何も持たない人間を殴れるのか、という思いだったのかしら」と加藤。「格好つけるし、実際に格好いい男だったのよ」
2002年7月31日、藤本は「もういだろう」と自ら酸マスクを外し、旅立った。
「もしもあなたが死んで、私を捨てる時も、私はかまわない、あなたと行くから・・」
77歳を迎えた20年12月のコンサート、加藤は「愛の讃歌」を高らかに歌い上げた。
<引用以上>
いろんな表現の仕方があるが、なかでも歌は、その言葉とメロディーで、心のひだに沁みとおってくる。こんな思いで、こんな風に歌えたら・・・
閲覧(1921)
カテゴリー | ||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |