tinc さんの日記
2021
1月
28
(木)
00:05
本文
上着のポケットには物を入れないという人もいる。物を入れると上着のシルエットが崩れるということが主な理由であると聞くが、私は物を入れて持ち運ぶためのポケットだと思っているので携帯電話やら煙草の箱やらオイルライターやらボールペンやら色々なものを突っ込んでいつもポケットを膨らましている。
ところで、不可知論という立場あるいは主義がある。大雑把に云えば人は事物の本質を知り得ないのだということがその主張するところであるようだ。不可知論をめぐっては古くから多くの深遠な議論が為されているが私はよく知らない。ただ私のような怠惰で快楽主義的なタイプの人間には不可知論はあまり有用でなく、どうせ事物の本質など分からないのだからものを考えるのは無駄であるとか、あるいは分からないものなので自分に都合よく設定されたものを信じてよいとかの救いようの無い愚かさへと己を向かわせる足となることが予想されるので不可知論からはある程度の距離を置くようにしている。
しかし困ったことに私は自分の知らないことでも知った気になりたがる性質も持っているので、その種の愚かさを中和する目的でせいぜい片手で玩べる程度の、ポケットサイズの不可知論的な意識を自分へ処方して常に持ち歩くようにしている。例えば私が誰かと話していてその人の気持ちや考えを自分は充分理解していると思う時などにはそのポケットの中の不可知論を服用すると、内心に「いや、わからんぞ」という声も出てきて知ったつもりにブレーキをかける。他人の気持ちや考えは私には知りようの無いことである。また私にとって重要なことでもある。重要なことを知らないでいることに耐えるのに不可知論は一定の効果を発揮する。
物事を学ぶのに賢さが必要とされる一方で、十分に賢くない自分のまま学び続ける忍耐も同様に必要である。分からないことを分からないと答える知的な誠実さの一つは、時にその忍耐に支えられている。
ところで、不可知論という立場あるいは主義がある。大雑把に云えば人は事物の本質を知り得ないのだということがその主張するところであるようだ。不可知論をめぐっては古くから多くの深遠な議論が為されているが私はよく知らない。ただ私のような怠惰で快楽主義的なタイプの人間には不可知論はあまり有用でなく、どうせ事物の本質など分からないのだからものを考えるのは無駄であるとか、あるいは分からないものなので自分に都合よく設定されたものを信じてよいとかの救いようの無い愚かさへと己を向かわせる足となることが予想されるので不可知論からはある程度の距離を置くようにしている。
しかし困ったことに私は自分の知らないことでも知った気になりたがる性質も持っているので、その種の愚かさを中和する目的でせいぜい片手で玩べる程度の、ポケットサイズの不可知論的な意識を自分へ処方して常に持ち歩くようにしている。例えば私が誰かと話していてその人の気持ちや考えを自分は充分理解していると思う時などにはそのポケットの中の不可知論を服用すると、内心に「いや、わからんぞ」という声も出てきて知ったつもりにブレーキをかける。他人の気持ちや考えは私には知りようの無いことである。また私にとって重要なことでもある。重要なことを知らないでいることに耐えるのに不可知論は一定の効果を発揮する。
物事を学ぶのに賢さが必要とされる一方で、十分に賢くない自分のまま学び続ける忍耐も同様に必要である。分からないことを分からないと答える知的な誠実さの一つは、時にその忍耐に支えられている。
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