深海魚 さんの日記
2020
12月
19
(土)
10:42
本文
「古代ギリシャの北方にあったマケドニア王国の王子として生まれ、少年の頃、ギリシャの哲学者 アリストテレスを師として学んだ。
全ギリシャを支配した父、フィリッポス2世はペルシャ遠征を計画したが、紀元前336年に暗殺され、アレクサンダーは若くして王位についた。父の志を継いでペルシャを含めた東方遠征を行い、シリア、エジプト、ついにはペルシャを従え、さらにインドへも軍を進めた。遠征は18,000キロメートルにも達し、ヨーロッパ、アフリカ、アジアにわたる大帝国をつくった。アラビア遠征も計画していたが、ある日の祝宴中に倒れ、10日間高熱に浮かされたのち死んでしまった。33才であった。」
ここには大王の重要な功績が書かれていませんが、エジプトを占領し残忍な支配を行ったペルシャ帝国を叩き出し、善政をしいてエジプト民の信頼を得てそのままエジプトのファラオ(王)となり、その後ペルシャ軍を追ってついに打ち負かしペルシア王国を征服しました。
なんかハピスロでえげつない複アカを追いかけてるような話ですが。
とまあここまで大雑把にですが、もっと詳しく知りたい方はWIKIでもお調べ下さい。
自分で書いたら本の一冊もかけてしまいますので。
エジプトのミイラの入った木棺をご覧になると古代エジプト王朝とプトレマイオス王朝(紀元前323 - 30年ごろ)とでは木棺の顔が違いますのでギリシャ王朝が直ぐに解かります。
クレオパトラ女王はプトレマイオス王朝の女王ですからギリシャ系という事ですね。ここからローマのシーザーやアントニウスとの話になるともう終わりが見えないので割愛いたします。
北ギリシャの地名にはマケドニア語の旧名と、戦後ギリシャがどさくさに紛れて領土を占領し併合した後のギリシャ名が有ります。
日本からはアテネ経由でテサロニキに行き、そこから陸路でマケドニア南部に着きます。私の場合は空港に友人が車で迎えが来ていますので簡単ですが目的地はマケドニアの南部ゲブゲリア(Gevgelija)です。
最近では難民が押し寄せて大変な事になっていますが、私の話はずっと昔の話で、丁度ユーゴスラビア紛争の真っ最中から終わりにかけてでした。
首都のスコーピエ空港には離着陸するNATO軍と国連軍の白く塗装された飛行機が盛んに発着していました。たしかあれは二度目だったと記憶していますが。
最初にセルビアの首都であるベオグラードに行ったら橋が空爆で破壊され、道路がやはり大きくえぐれていました。中国が隠れて対空レーダーを設置してあった新聞社の建物も黒焦げ、10階ほどの建物の屋上に命中しミサイルが下まで貫通したのだそうです。
またまた話が外れますが、その南部マケドニアのゲブゲリアは高地でとても素晴らしいところです。
友人が四駆を出してくれて、山岳地帯に登ってくれましたが、ホントに四駆でなければ登れない1500m級の山の上でした。素晴らしい眺めです。こんなところに、こんな景色が有ったのかと思いました。
途中の渓谷に沿って走る途中に友人の知人がやってる小さなレストランに入りましたが、新鮮な野菜とお肉、焼いたお肉の料理が多くバルカン料理は大好きな料理のひとつです。とても興味深かったのは硫黄の匂いのするミネラル・ウオーターが有りました。あれってなんでしょうね。
ここから一番大事な話です。友人と山へ出発する時に見てしまったのです。
実は、彼はショルダーバッグに何か皮のベルトの付いたものを収めていたのです。
「今のはもしかして拳銃かい?」と聞いたら、「そうだよ、こういう状況だから誰が潜んでいるかわからないからね、一応持っていくんだ」と。
幸い使わずに済みましたが。
全ギリシャを支配した父、フィリッポス2世はペルシャ遠征を計画したが、紀元前336年に暗殺され、アレクサンダーは若くして王位についた。父の志を継いでペルシャを含めた東方遠征を行い、シリア、エジプト、ついにはペルシャを従え、さらにインドへも軍を進めた。遠征は18,000キロメートルにも達し、ヨーロッパ、アフリカ、アジアにわたる大帝国をつくった。アラビア遠征も計画していたが、ある日の祝宴中に倒れ、10日間高熱に浮かされたのち死んでしまった。33才であった。」
ここには大王の重要な功績が書かれていませんが、エジプトを占領し残忍な支配を行ったペルシャ帝国を叩き出し、善政をしいてエジプト民の信頼を得てそのままエジプトのファラオ(王)となり、その後ペルシャ軍を追ってついに打ち負かしペルシア王国を征服しました。
なんかハピスロでえげつない複アカを追いかけてるような話ですが。



とまあここまで大雑把にですが、もっと詳しく知りたい方はWIKIでもお調べ下さい。
自分で書いたら本の一冊もかけてしまいますので。
エジプトのミイラの入った木棺をご覧になると古代エジプト王朝とプトレマイオス王朝(紀元前323 - 30年ごろ)とでは木棺の顔が違いますのでギリシャ王朝が直ぐに解かります。
クレオパトラ女王はプトレマイオス王朝の女王ですからギリシャ系という事ですね。ここからローマのシーザーやアントニウスとの話になるともう終わりが見えないので割愛いたします。
北ギリシャの地名にはマケドニア語の旧名と、戦後ギリシャがどさくさに紛れて領土を占領し併合した後のギリシャ名が有ります。
日本からはアテネ経由でテサロニキに行き、そこから陸路でマケドニア南部に着きます。私の場合は空港に友人が車で迎えが来ていますので簡単ですが目的地はマケドニアの南部ゲブゲリア(Gevgelija)です。
最近では難民が押し寄せて大変な事になっていますが、私の話はずっと昔の話で、丁度ユーゴスラビア紛争の真っ最中から終わりにかけてでした。
首都のスコーピエ空港には離着陸するNATO軍と国連軍の白く塗装された飛行機が盛んに発着していました。たしかあれは二度目だったと記憶していますが。
最初にセルビアの首都であるベオグラードに行ったら橋が空爆で破壊され、道路がやはり大きくえぐれていました。中国が隠れて対空レーダーを設置してあった新聞社の建物も黒焦げ、10階ほどの建物の屋上に命中しミサイルが下まで貫通したのだそうです。
またまた話が外れますが、その南部マケドニアのゲブゲリアは高地でとても素晴らしいところです。
友人が四駆を出してくれて、山岳地帯に登ってくれましたが、ホントに四駆でなければ登れない1500m級の山の上でした。素晴らしい眺めです。こんなところに、こんな景色が有ったのかと思いました。
途中の渓谷に沿って走る途中に友人の知人がやってる小さなレストランに入りましたが、新鮮な野菜とお肉、焼いたお肉の料理が多くバルカン料理は大好きな料理のひとつです。とても興味深かったのは硫黄の匂いのするミネラル・ウオーターが有りました。あれってなんでしょうね。
ここから一番大事な話です。友人と山へ出発する時に見てしまったのです。
実は、彼はショルダーバッグに何か皮のベルトの付いたものを収めていたのです。
「今のはもしかして拳銃かい?」と聞いたら、「そうだよ、こういう状況だから誰が潜んでいるかわからないからね、一応持っていくんだ」と。
幸い使わずに済みましたが。
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