tinc さんの日記
2020
12月
13
(日)
17:10
本文
私の勤務先はとある小企業のカスタマーサポート部門である。部門責任者の部長は苛烈と辛辣を絵に描いたような人物で、よく怒鳴りよく嫌味を言い、私が入社してから現在まで見たところ部の内外から恐れられ嫌われている様子である。部内には部長の目の届かないところで結束するような雰囲気が感じられ、部長の不在時に交わされる雑談の大部分は部長への非難を含む内容に聞こえる。
入社してから2週間ほどが経ち、少しできることの増えた私は昨夜少し残業をしていた。先輩たちのチェックを経るほど複雑ではないが完全に自動化も為されていないという、時間と手間ばかりかかってあまり目に見える生産性に結びつかない内容の業務であった。単純なことでもやれば身になると思って私はその作業を敢えて一人でやることを申し出たので、退勤時刻を過ぎた部署内は何か別の業務をしているらしい部長と私の2人だけになった。
3時間弱の残業になった。部長の席へ行って報告をし、「まだ何か手伝えることがありますか」と尋ねると、部長は少し考えて「お前煙草吸うんだよな。一服するか」と言った。
喫煙所で判明したのは部長と私が同じ煙草を吸っていることであった。一息目を大きく吸って大きく吐くと、狭い喫煙所は2人分の紫煙で一瞬濃霧の中のような様相を呈した。
「おれ、みんなから嫌われてるだろ」と部長は言った。
「何ですか急に」私は言った。
「いや、ほんとに嫌われてんだよ。家でも嫌われてんだよ。家族から」
「はあ」
「みんなおれのこと死ねばいいと思ってる」
「私は思いませんけど」
部長は私を睨むように見て沈黙し、2本目の煙草を取り出して火を点けた。
「なんで思わねえんだよ」
「そんな無茶な。なんで私が『部長が死ねばいい』と思わなきゃいけないんですか」
「みんなそう思ってんだよ」
「知りませんよ。みんなの願望は関係ないでしょう」
「そんなこと言ってるとお前も嫌われるぞ」
「知りませんってば。関係ないですよ。好かれようと嫌われようと」
「出世しねえな、お前は」
「はい」
「はいじゃねえよ。気に入られるようにしろよ」
「いや、自分のことみんなから嫌われてるって言う人からそんなこと言われても」
部長は舌打ちをして灰皿に唾を吐き、粗雑な動作で煙草を揉み消して、私に「早く帰れよ」と言って喫煙所を出て行った。
私は自分の煙草を吸い終えると、荷物を取りに部署へ戻った。部長は自席で両手を頭の後ろで組んで目を閉じていた。
「部長、死なないで下さいよ」と私は部長に言った。「今のところ私はそう思ってます」
部長は溜息を吐いた。そしてぼんやりと「帰りたくねえんだよ」と言った。
「仕事辞めて離婚でもしたらどうですか」
「それでどうすんだよ」
「自分のこと嫌いじゃない人たちを見つけて、その人たちと好きなことするんですよ」
「この歳でか」
「歳は関係ない」
「しつけえなお前は。そんなしつこくしてたら営業に回すぞ」
「嫌です。お先に失礼します」
帰りの電車の中で、私は自分の言動のまずさを改めて認識するとともに部長についてもいくつかのことを考えた。部長の普段の威圧的で攻撃的な態度は許容されるべきものではない。しかし部長も単なる人間に過ぎず、自身の状況が閉塞しているので威圧的攻撃的にならざるを得ないのかもしれない。あるいは私がそのように考えるであろうことを見越した上で部長のほうへ心情を傾けるように仕向けているのかもしれないし、私の想像とは反対に部長自身は余裕に満ちているので私を容易に扱うことができるのかもしれない。何にせよああいう風にしていたら疲れるのではないか。
苛烈であったり辛辣であったりという性質の持ち主を私は好きでない。しかし仮に世の中が私の好きでないものの存在を許さなかったら私は恐ろしく孤独であろうと思う。また当たりが柔らかいからといってそれが尊重の証拠とは限らず、真綿で締め付けて殺すという手口も世には横行している。
私は他人を尊重したいし他人に寛容でありたいのだが、何が尊重で何が寛容かは常に新たに見直さないと悪手を打つことになる。自分のしてあげたいことと相手のしてもらいたいことには常に相違がある。昨夜の出来事で云えば部長は何か自分を助け出すような言葉を求めていたのかもしれない。対する私はあまりにも無自覚な自分のままで思いつくままに話してしまった。私は自身の尊重と寛容に多様性を持たせようと思うなら、まずもっと多くのペルソナを用意せねばならないのかもしれない。
入社してから2週間ほどが経ち、少しできることの増えた私は昨夜少し残業をしていた。先輩たちのチェックを経るほど複雑ではないが完全に自動化も為されていないという、時間と手間ばかりかかってあまり目に見える生産性に結びつかない内容の業務であった。単純なことでもやれば身になると思って私はその作業を敢えて一人でやることを申し出たので、退勤時刻を過ぎた部署内は何か別の業務をしているらしい部長と私の2人だけになった。
3時間弱の残業になった。部長の席へ行って報告をし、「まだ何か手伝えることがありますか」と尋ねると、部長は少し考えて「お前煙草吸うんだよな。一服するか」と言った。
喫煙所で判明したのは部長と私が同じ煙草を吸っていることであった。一息目を大きく吸って大きく吐くと、狭い喫煙所は2人分の紫煙で一瞬濃霧の中のような様相を呈した。
「おれ、みんなから嫌われてるだろ」と部長は言った。
「何ですか急に」私は言った。
「いや、ほんとに嫌われてんだよ。家でも嫌われてんだよ。家族から」
「はあ」
「みんなおれのこと死ねばいいと思ってる」
「私は思いませんけど」
部長は私を睨むように見て沈黙し、2本目の煙草を取り出して火を点けた。
「なんで思わねえんだよ」
「そんな無茶な。なんで私が『部長が死ねばいい』と思わなきゃいけないんですか」
「みんなそう思ってんだよ」
「知りませんよ。みんなの願望は関係ないでしょう」
「そんなこと言ってるとお前も嫌われるぞ」
「知りませんってば。関係ないですよ。好かれようと嫌われようと」
「出世しねえな、お前は」
「はい」
「はいじゃねえよ。気に入られるようにしろよ」
「いや、自分のことみんなから嫌われてるって言う人からそんなこと言われても」
部長は舌打ちをして灰皿に唾を吐き、粗雑な動作で煙草を揉み消して、私に「早く帰れよ」と言って喫煙所を出て行った。
私は自分の煙草を吸い終えると、荷物を取りに部署へ戻った。部長は自席で両手を頭の後ろで組んで目を閉じていた。
「部長、死なないで下さいよ」と私は部長に言った。「今のところ私はそう思ってます」
部長は溜息を吐いた。そしてぼんやりと「帰りたくねえんだよ」と言った。
「仕事辞めて離婚でもしたらどうですか」
「それでどうすんだよ」
「自分のこと嫌いじゃない人たちを見つけて、その人たちと好きなことするんですよ」
「この歳でか」
「歳は関係ない」
「しつけえなお前は。そんなしつこくしてたら営業に回すぞ」
「嫌です。お先に失礼します」
帰りの電車の中で、私は自分の言動のまずさを改めて認識するとともに部長についてもいくつかのことを考えた。部長の普段の威圧的で攻撃的な態度は許容されるべきものではない。しかし部長も単なる人間に過ぎず、自身の状況が閉塞しているので威圧的攻撃的にならざるを得ないのかもしれない。あるいは私がそのように考えるであろうことを見越した上で部長のほうへ心情を傾けるように仕向けているのかもしれないし、私の想像とは反対に部長自身は余裕に満ちているので私を容易に扱うことができるのかもしれない。何にせよああいう風にしていたら疲れるのではないか。
苛烈であったり辛辣であったりという性質の持ち主を私は好きでない。しかし仮に世の中が私の好きでないものの存在を許さなかったら私は恐ろしく孤独であろうと思う。また当たりが柔らかいからといってそれが尊重の証拠とは限らず、真綿で締め付けて殺すという手口も世には横行している。
私は他人を尊重したいし他人に寛容でありたいのだが、何が尊重で何が寛容かは常に新たに見直さないと悪手を打つことになる。自分のしてあげたいことと相手のしてもらいたいことには常に相違がある。昨夜の出来事で云えば部長は何か自分を助け出すような言葉を求めていたのかもしれない。対する私はあまりにも無自覚な自分のままで思いつくままに話してしまった。私は自身の尊重と寛容に多様性を持たせようと思うなら、まずもっと多くのペルソナを用意せねばならないのかもしれない。
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