tinc さんの日記
2020
12月
2
(水)
13:05
本文
今日は休日である。新しく就いた仕事の職場環境や業務内容に関してはまだ分からないことが多く、分かり次第判断しなければならないこともあるものの私は基本的に勤務時間外には業務のことは頭から追い出すようにしている。仮にいつか重責を負う立場になれば休日にも連絡を受けたりしなければならなくなるのかもしれないが、今の仕事で私が重責を負うことになるほど熟達し雇用主の利益を増大できるようになると想像できないし、仮に昇進の話があっても私が了承するとも思わない。ブラック企業は私に不利益をもたらす。私というブラック人材は企業に不利益をもたらす。悪人が双方損害を被るという、ある意味では結構な話である。
就業や給与に関しては雇用契約書に書かれている他にも様々の規定が存在するが、そういうものは文書で明示されず口頭でああしろこうしろ、ああするなこうするな、と言われることが多いと思う。その結果雇用主の考えや態度等は見えず、直属上司の言動から想像することになる。上司からの命令にいちいち根拠の明示を求めていては業務にならないので言われるままにするのであるが、気づくとそんなことで一日が終わってその繰り返しで数か月が経過していたりするから恐ろしい。私の20代まるごとはそうして過ぎた。私は何かの仕組みの中で生活をし、そしてその仕組みについて何も知らない。現職場という小さな環境の中ですら何をどこまで行うのは許されて何が許されないのかは見えないままである。
何ならしてよくて何をするのは駄目か、という問題は日常においてもよく出会うものである。一つの極端な例では自死という行為を禁止する法は無い一方で、自死の権利が法で保障されているわけでもないと私は記憶している。また戦力の不保持という大きな法が存在しても自衛権という権利がより普遍的であり法に優越するため、それが戦力の保持を許すという判断をわりと最近に聞いたような気もする。
これらの例は私の普段の生活の感覚からは大小の距離のあるものであるが、いずれにせよ「何かの行為の権利がある」ことと「その行為を禁止する定めが無い」ことは同じではなく、その逆もまた成立するということだと思う。何かの定めにはその根拠となる定めや通念や意識といったものが問われることも多く、当該の禁止や保障自体が誤ったものであると結論づけられることもしばしばあるからである。
許可と禁止について問おうと思えばおよそ何でも問うことができる。なぜ洗濯物を裏返しにして洗わなければならないか、なぜ日々食事と睡眠を設けなくてはならないか、なぜ他人を傷つけてはならないか、なぜ生きなくてはならないか等。そして答えること自体は問うことと同じく簡単でも、その答えの妥当さや正確さや普遍性の議論は概ねものすごく具体的になるか高度に抽象的になるかのいずれかに向かい、どちらも複雑な様相を呈する。
昨日の退勤前にある先輩が私のところへやって来て、私の上司が私の態度が悪いということを言っていたと述べた。これは私の関心をあまり引かなかった。上司が自分で私へ言わないうちは事実か否かの確認も困難であるし、態度といっても勤務態度が悪いということなのか上司の感情を害する態度であるという意味なのか、何にせよ意味するところが分からないと何とも反応の取りようが無い。世間一般の社会人なら気にしたほうがよいのだろうが、こちらとしては散歩や家事や趣味活動や余暇活動等で多忙であるので社会人の役まで引き受けておれず、無視するほか無い。
今の職場ほど疲労を感じないところは今まで経験したことが無い。雇用が続くなら続くで自分が飽きるまで勤務すればよいし、明日から来なくてよいと言われても結構である。何の喜びも苦しみも私に感じさせない、半日だけ死にに通うような場所と感じている。従事していて楽しい仕事も過去にはあったが、楽しいことというのはやっていてそれなりに疲れるものである。職場へ行って見知らぬ他人から心無い言葉を受けて謝るだけで大した疲労無く生活費を得られるのだから、考えようによっては気楽な環境であると云える。
卑劣な生活態度であるが、卑劣でない生活をする方法を私は知らない。
就業や給与に関しては雇用契約書に書かれている他にも様々の規定が存在するが、そういうものは文書で明示されず口頭でああしろこうしろ、ああするなこうするな、と言われることが多いと思う。その結果雇用主の考えや態度等は見えず、直属上司の言動から想像することになる。上司からの命令にいちいち根拠の明示を求めていては業務にならないので言われるままにするのであるが、気づくとそんなことで一日が終わってその繰り返しで数か月が経過していたりするから恐ろしい。私の20代まるごとはそうして過ぎた。私は何かの仕組みの中で生活をし、そしてその仕組みについて何も知らない。現職場という小さな環境の中ですら何をどこまで行うのは許されて何が許されないのかは見えないままである。
何ならしてよくて何をするのは駄目か、という問題は日常においてもよく出会うものである。一つの極端な例では自死という行為を禁止する法は無い一方で、自死の権利が法で保障されているわけでもないと私は記憶している。また戦力の不保持という大きな法が存在しても自衛権という権利がより普遍的であり法に優越するため、それが戦力の保持を許すという判断をわりと最近に聞いたような気もする。
これらの例は私の普段の生活の感覚からは大小の距離のあるものであるが、いずれにせよ「何かの行為の権利がある」ことと「その行為を禁止する定めが無い」ことは同じではなく、その逆もまた成立するということだと思う。何かの定めにはその根拠となる定めや通念や意識といったものが問われることも多く、当該の禁止や保障自体が誤ったものであると結論づけられることもしばしばあるからである。
許可と禁止について問おうと思えばおよそ何でも問うことができる。なぜ洗濯物を裏返しにして洗わなければならないか、なぜ日々食事と睡眠を設けなくてはならないか、なぜ他人を傷つけてはならないか、なぜ生きなくてはならないか等。そして答えること自体は問うことと同じく簡単でも、その答えの妥当さや正確さや普遍性の議論は概ねものすごく具体的になるか高度に抽象的になるかのいずれかに向かい、どちらも複雑な様相を呈する。
昨日の退勤前にある先輩が私のところへやって来て、私の上司が私の態度が悪いということを言っていたと述べた。これは私の関心をあまり引かなかった。上司が自分で私へ言わないうちは事実か否かの確認も困難であるし、態度といっても勤務態度が悪いということなのか上司の感情を害する態度であるという意味なのか、何にせよ意味するところが分からないと何とも反応の取りようが無い。世間一般の社会人なら気にしたほうがよいのだろうが、こちらとしては散歩や家事や趣味活動や余暇活動等で多忙であるので社会人の役まで引き受けておれず、無視するほか無い。
今の職場ほど疲労を感じないところは今まで経験したことが無い。雇用が続くなら続くで自分が飽きるまで勤務すればよいし、明日から来なくてよいと言われても結構である。何の喜びも苦しみも私に感じさせない、半日だけ死にに通うような場所と感じている。従事していて楽しい仕事も過去にはあったが、楽しいことというのはやっていてそれなりに疲れるものである。職場へ行って見知らぬ他人から心無い言葉を受けて謝るだけで大した疲労無く生活費を得られるのだから、考えようによっては気楽な環境であると云える。
卑劣な生活態度であるが、卑劣でない生活をする方法を私は知らない。
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