tinc さんの日記
2020
11月
24
(火)
12:18
本文
私が疎いことは世に多い。その一つが恋愛に関わる諸々である。
以前このブログに自分の子どもの頃の初恋の記憶について書かせて頂いた。その初恋を経て私が自覚したのは、自分は誰かを愛していたのではなく自分を肯定し安心させてくれる誰かを求めていたのであったということであった。私はその初恋以降は恋愛感情の類を自分の中に見たことが無い。
しかし多くの人は様々の形で恋愛を経験しながら生活している。私も周囲の人からその人が目下経験している恋愛について聞くことがある。専ら聞くのみである。そして聞いていて頻繁に感じるのは、恋愛が両者の間のみで完結する事態が少数の部類であり、無関係のはずの周辺の他人が直接間接に関与していることが多いのではないかということである。
例えばある人は身体に障害のある人と交際している。その人は交際相手の身体障害に関して他人へいちいち説明する必要に迫られ、そのことに疲弊することがあると言う。また自身の障害でなく交際相手の障害に関することであるため自身が自身のことのように説明をするのに葛藤も苦悩もあると言う。他人が質問をすれば答えるが、それは「答えない」ということが否定的に受け取られるからだとのことである。答えなければ後ろ暗い事情や心情を隠していると見なされることになる。私から見るとその人は自身の恋愛について無関係の他人からの迷惑を被っている。
またある人は容姿や社会的地位その他能力や資源の面でより優れた人を求めて頻繁に交際する相手を変更する。その人は同性の友人たちとの間で交際相手の優劣を競い合い、そのことがその人の生活の中心になっていると言う。自分の年齢を考慮するとそろそろ結婚せねばならず、期限の迫る中で結果を最良のものにするべく奮闘しているそうである。私はその人が行っているのが恋愛でなく経済活動であると感じながら話を聞いている。
これら二例は互いに比較が困難なほど性質が異なるものの、恋愛に他人の思惑や価値観が関与しているということが共通している。あるいは私が「恋愛は当人たちの間で完結するもの」と考えているのが実態に則さないのかもしれない。人は見知ったり見知らなかったりの他人の間で生きてゆくものであるから。
しかし恋愛に関する話を聞く毎に私の胸中に生じるこの反発は何なのだろうと思う。おそらくは私が本来あるべきと心のどこかで見なしている、自由や平等というものが損われていると感じるところから来ているものである。障害のある人と交際している人の例で云えば、たとえ善意の混じる動機からであっても無用の手出し口出しが他人から為されているということに私は反発している。また経済活動として恋愛をしている人の例で云えば、今だ他人の経済力や地位や評判に依存しなければ満足に生きてゆかれない社会しか無いということへ私は反発している。
なんと無力な抵抗かと我ながら思う。また他人へ徒に手出し口出しをするなと言う私が他人のことで腹を立てているのは滑稽でもある。
しかし私はその実現を見ずに自らが死ぬとしても理想を持つべきだと思い、私にとって恋愛が他人事であっても自由平等は他人事でないと考えるので、他人の恋愛に関して聞く度相槌だけ打ちながらあれこれと考えたり喜んだり悲しんだり反発を覚えたりしている。ひとの話を聞くのは楽でも簡単でもない。楽で簡単なことなどそうそう無いものだと思う。
以前このブログに自分の子どもの頃の初恋の記憶について書かせて頂いた。その初恋を経て私が自覚したのは、自分は誰かを愛していたのではなく自分を肯定し安心させてくれる誰かを求めていたのであったということであった。私はその初恋以降は恋愛感情の類を自分の中に見たことが無い。
しかし多くの人は様々の形で恋愛を経験しながら生活している。私も周囲の人からその人が目下経験している恋愛について聞くことがある。専ら聞くのみである。そして聞いていて頻繁に感じるのは、恋愛が両者の間のみで完結する事態が少数の部類であり、無関係のはずの周辺の他人が直接間接に関与していることが多いのではないかということである。
例えばある人は身体に障害のある人と交際している。その人は交際相手の身体障害に関して他人へいちいち説明する必要に迫られ、そのことに疲弊することがあると言う。また自身の障害でなく交際相手の障害に関することであるため自身が自身のことのように説明をするのに葛藤も苦悩もあると言う。他人が質問をすれば答えるが、それは「答えない」ということが否定的に受け取られるからだとのことである。答えなければ後ろ暗い事情や心情を隠していると見なされることになる。私から見るとその人は自身の恋愛について無関係の他人からの迷惑を被っている。
またある人は容姿や社会的地位その他能力や資源の面でより優れた人を求めて頻繁に交際する相手を変更する。その人は同性の友人たちとの間で交際相手の優劣を競い合い、そのことがその人の生活の中心になっていると言う。自分の年齢を考慮するとそろそろ結婚せねばならず、期限の迫る中で結果を最良のものにするべく奮闘しているそうである。私はその人が行っているのが恋愛でなく経済活動であると感じながら話を聞いている。
これら二例は互いに比較が困難なほど性質が異なるものの、恋愛に他人の思惑や価値観が関与しているということが共通している。あるいは私が「恋愛は当人たちの間で完結するもの」と考えているのが実態に則さないのかもしれない。人は見知ったり見知らなかったりの他人の間で生きてゆくものであるから。
しかし恋愛に関する話を聞く毎に私の胸中に生じるこの反発は何なのだろうと思う。おそらくは私が本来あるべきと心のどこかで見なしている、自由や平等というものが損われていると感じるところから来ているものである。障害のある人と交際している人の例で云えば、たとえ善意の混じる動機からであっても無用の手出し口出しが他人から為されているということに私は反発している。また経済活動として恋愛をしている人の例で云えば、今だ他人の経済力や地位や評判に依存しなければ満足に生きてゆかれない社会しか無いということへ私は反発している。
なんと無力な抵抗かと我ながら思う。また他人へ徒に手出し口出しをするなと言う私が他人のことで腹を立てているのは滑稽でもある。
しかし私はその実現を見ずに自らが死ぬとしても理想を持つべきだと思い、私にとって恋愛が他人事であっても自由平等は他人事でないと考えるので、他人の恋愛に関して聞く度相槌だけ打ちながらあれこれと考えたり喜んだり悲しんだり反発を覚えたりしている。ひとの話を聞くのは楽でも簡単でもない。楽で簡単なことなどそうそう無いものだと思う。
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