tinc さんの日記
2020
11月
16
(月)
01:03
本文
私はおそろしく感情的で短絡的な人間である。多くの物事を短期的にしか捉えられず、実質的な利害よりもその時の気分で言動を選択することが殆どである。そういう人間なので以前は今と比してさえ些細なことで一喜一憂していた。嬉しい出来事があればすぐに有頂天になり、嫌な目に遭うと人生を呪うというふうだった。
ある時ふと心を訪れたのが、「なんで俺がいちいちはしゃいだり嘆いたりしなきゃいけないんだ?いつも平穏で優しい気持ちでいたっていいはずだ」という考えであった。良いことを喜び悪いことを悲しむのは他の多くの人にとっては健全な心の動きであるが、私の中のその動きは自分を束縛し振り回すものになっているため、感情や気分の他に自分を律するものが必要であるという意思に至ったのであると思う。
今でも不安や焦燥や恐怖に突き動かされるように行動することは絶え間なくあるものの、以前のように自分の人生がぼろぼろに破壊されていると感じることは無い。貧乏だったり病気が多かったり無能だったり、私に課題は山積しているとはいえ、課題が山積しているのならば課題を解決しようとは思うが課題について心配しても無益に感じられてすぐに心配が馬鹿らしくなる。仕事を探したり家事をしたり、服を選んだり散歩をしたり音楽を聴いたり読書をしたりと私にもすることがあるから、あまり己の気分だけに取り合ってもいられない。気分は重要である。しかし気分に支配されるのは御免被りたい。
嫌がらせを受けて嫌な気分になっていたら相手の思うつぼであるし、褒められていい気になっていたら操り人形である。なんで俺が、とやはり思う。私はもっと理性を育んでその声を聞き、物事をよく見聞きしてよく考え、周囲に順応も反発もせず日々を過ごしたいのである。この歳になって今更言うことではないのかもしれない。かといって成長を拒絶することはできない。嫌なことがあっても嫌がるだけで済まさず、嫌なことでも具に見て本質を見抜く力を得ることを私は自分に期待したいところである。
ある時ふと心を訪れたのが、「なんで俺がいちいちはしゃいだり嘆いたりしなきゃいけないんだ?いつも平穏で優しい気持ちでいたっていいはずだ」という考えであった。良いことを喜び悪いことを悲しむのは他の多くの人にとっては健全な心の動きであるが、私の中のその動きは自分を束縛し振り回すものになっているため、感情や気分の他に自分を律するものが必要であるという意思に至ったのであると思う。
今でも不安や焦燥や恐怖に突き動かされるように行動することは絶え間なくあるものの、以前のように自分の人生がぼろぼろに破壊されていると感じることは無い。貧乏だったり病気が多かったり無能だったり、私に課題は山積しているとはいえ、課題が山積しているのならば課題を解決しようとは思うが課題について心配しても無益に感じられてすぐに心配が馬鹿らしくなる。仕事を探したり家事をしたり、服を選んだり散歩をしたり音楽を聴いたり読書をしたりと私にもすることがあるから、あまり己の気分だけに取り合ってもいられない。気分は重要である。しかし気分に支配されるのは御免被りたい。
嫌がらせを受けて嫌な気分になっていたら相手の思うつぼであるし、褒められていい気になっていたら操り人形である。なんで俺が、とやはり思う。私はもっと理性を育んでその声を聞き、物事をよく見聞きしてよく考え、周囲に順応も反発もせず日々を過ごしたいのである。この歳になって今更言うことではないのかもしれない。かといって成長を拒絶することはできない。嫌なことがあっても嫌がるだけで済まさず、嫌なことでも具に見て本質を見抜く力を得ることを私は自分に期待したいところである。
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