tinc さんの日記
2020
10月
29
(木)
22:05
本文
無意味なことは記憶に残り難い。また無意味なことについての意見や感想を述べることも困難である。記憶や思考の力とは別に興味や関心の対象の違いによって何に意味があって何が無意味であるかということは変わる。例えば私は幾何学の分野に登場する一角形や二角形というものが好きなのだが、両方とも日常の生活で扱うことが困難でまた扱わなくとも不便が無いため他の多くの人にとっては無意味な概念であろう。
近頃は私の頭の中に何かの変化があったのか、以前に意味を見出していた事物が無意味に思えるということが増えた。私はよく食べるほうの人間であったのだが最近は空腹を感じても間食をしなくなったし食事の際に満腹の域に達していなくても充分であると感じて食べるのを止めるようになった。また煙草も一本の半分くらい吸うと飽きたように感じて消火してしまう。持病のアトピー性皮膚炎で常に身体のあちこちの皮膚に湿疹があって痒いので爪を立てて掻いているのが、「なぜ痒いからといって掻かなければならないのだろう」という気がして痒いまま手を触れずに放っておくことも増えた。これらのことはみな身体的な快不快についてのことであり、その意味が私にとって今は薄れているということなのかもしれないと思う。快の方へ向かい不快から遠ざかるということは大きな前提であるので、何が快で何が不快であるかが変わったということが私の云っている意味の変化なのであろうか。
快不快には多くのことが結びついている。快適な感情もあれば不快な感情もある。悪事を目撃すると不快だがそれを断罪するのは快適であるということもありうるように、複雑に広く何事にもつきまとうかのように作用するのが快不快であると思う。
事物について良い悪いとか好き嫌いとかが云える、つまり何らかの評価が可能であるということは、その事物に何かの意味があるからであると私は考えている。無意味なものについては冒頭に書いたように憶えることも考えることも困難である。それは無意味なものを認識することがそもそも困難であるからではないかとも思う。もしも今誰かが私へ口頭で「8という数字を3年と7か月間記憶せよ。その頃に『私が何を言ったか』と尋ねにお前のところへまたやって来るから」と言ったとして、私はその通りにしてみせることができるかと想像すると自信が無い。「馬以外の何かに関して述べよ」と言われるとまず馬のことしか頭には浮かばない。何かが存在することの証明はそれが存在しないことの証明と比較してはるかに容易い。
意味は存在に先立つのではないか。私は事実よりも頭の中のことをずっと多く見ているのではないか。快と不快が希薄になるにつれて、私の頭の中には意味がどんどん少なくなってゆき物事を認識するはたらきも弱まってゆくのではないか。
無意味なものは認識できないということからすると、頭の中に無意味なものは置いておけないはずである。しかし本当にそうか。脳の仕組みに関しては未だ誰も多くを知らない。無意味なものも脳の空間のいくらかを占め何かの作用をしていても不思議ではない。無意識とか潜在意識とか呼ばれているらしい、私の知らない領域の研究ではこれらのことにも説明が為されているのであろうか。しかしそれらはどの程度妥当でありうるのであろう。あたかも私の言うことのように、妥当か否か永遠に分からないものなのではないか。
私が今まで意味を見出してきた諸々の事物の多くは私にとって依然として変わらぬ意味を現時点で持っているものの、私の感情や心理を表立って動かすことが以前よりも少なくなった。表れ方としては生活の習慣が少し変わっただけと云える。食べる量が減って喫煙の間隔が広くなって皮膚を爪で掻きむしる動作が少し治まった。ただそれだけのことなのに、私の見るもの聞くものは最早数日前とまるで違って感じられる。何かを見ても別の何かを思い出さない。嬉しくも悲しくもない。活力を持て余すことも活力が急に減退して動けなくなることも無い。私は一種の安定の中にあるのか、死への大きな一段を降りて停滞しているのか。
この無意味を無意味と認識できるのは今のうちだからかもしれず、やがてもっと多くの事物が真に無意味になって認識にすら上らなくなるかもしれない。だから今のうちにこうして書いておこう。
近頃は私の頭の中に何かの変化があったのか、以前に意味を見出していた事物が無意味に思えるということが増えた。私はよく食べるほうの人間であったのだが最近は空腹を感じても間食をしなくなったし食事の際に満腹の域に達していなくても充分であると感じて食べるのを止めるようになった。また煙草も一本の半分くらい吸うと飽きたように感じて消火してしまう。持病のアトピー性皮膚炎で常に身体のあちこちの皮膚に湿疹があって痒いので爪を立てて掻いているのが、「なぜ痒いからといって掻かなければならないのだろう」という気がして痒いまま手を触れずに放っておくことも増えた。これらのことはみな身体的な快不快についてのことであり、その意味が私にとって今は薄れているということなのかもしれないと思う。快の方へ向かい不快から遠ざかるということは大きな前提であるので、何が快で何が不快であるかが変わったということが私の云っている意味の変化なのであろうか。
快不快には多くのことが結びついている。快適な感情もあれば不快な感情もある。悪事を目撃すると不快だがそれを断罪するのは快適であるということもありうるように、複雑に広く何事にもつきまとうかのように作用するのが快不快であると思う。
事物について良い悪いとか好き嫌いとかが云える、つまり何らかの評価が可能であるということは、その事物に何かの意味があるからであると私は考えている。無意味なものについては冒頭に書いたように憶えることも考えることも困難である。それは無意味なものを認識することがそもそも困難であるからではないかとも思う。もしも今誰かが私へ口頭で「8という数字を3年と7か月間記憶せよ。その頃に『私が何を言ったか』と尋ねにお前のところへまたやって来るから」と言ったとして、私はその通りにしてみせることができるかと想像すると自信が無い。「馬以外の何かに関して述べよ」と言われるとまず馬のことしか頭には浮かばない。何かが存在することの証明はそれが存在しないことの証明と比較してはるかに容易い。
意味は存在に先立つのではないか。私は事実よりも頭の中のことをずっと多く見ているのではないか。快と不快が希薄になるにつれて、私の頭の中には意味がどんどん少なくなってゆき物事を認識するはたらきも弱まってゆくのではないか。
無意味なものは認識できないということからすると、頭の中に無意味なものは置いておけないはずである。しかし本当にそうか。脳の仕組みに関しては未だ誰も多くを知らない。無意味なものも脳の空間のいくらかを占め何かの作用をしていても不思議ではない。無意識とか潜在意識とか呼ばれているらしい、私の知らない領域の研究ではこれらのことにも説明が為されているのであろうか。しかしそれらはどの程度妥当でありうるのであろう。あたかも私の言うことのように、妥当か否か永遠に分からないものなのではないか。
私が今まで意味を見出してきた諸々の事物の多くは私にとって依然として変わらぬ意味を現時点で持っているものの、私の感情や心理を表立って動かすことが以前よりも少なくなった。表れ方としては生活の習慣が少し変わっただけと云える。食べる量が減って喫煙の間隔が広くなって皮膚を爪で掻きむしる動作が少し治まった。ただそれだけのことなのに、私の見るもの聞くものは最早数日前とまるで違って感じられる。何かを見ても別の何かを思い出さない。嬉しくも悲しくもない。活力を持て余すことも活力が急に減退して動けなくなることも無い。私は一種の安定の中にあるのか、死への大きな一段を降りて停滞しているのか。
この無意味を無意味と認識できるのは今のうちだからかもしれず、やがてもっと多くの事物が真に無意味になって認識にすら上らなくなるかもしれない。だから今のうちにこうして書いておこう。
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