tinc さんの日記
2020
10月
14
(水)
02:21
本文
私は国籍も日本だし出生以来ずっと日本国内で生活している。海外へは短期間の観光旅行に2度行ったことがあるだけである。しかしあまりにも日本語が下手で、私の話すことは「何がどうなっているのか全く分からない」「こんなにとっちらかった喋り方をする大人は見たことが無い」と評されることがしばしばある。私が何らかの外語を解していて、頭の中で考える言語と外部へ発信する言語が異なるために一種の噛み合わなさが生じているわけでは当然ない。ただただ唯一使えることになっている言語をまともに使えないだけである。
このハピスロ世代の自分のブログを遡って読んでみても「これは何について書いてあるんだろう」と思うことが珍しくない。文法や語法の誤りに至っては自分で自分のことが心配になるほどである。コメントを下さる方がいらっしゃるがその方々の読解力や想像力に驚愕する。彼らの力にばかり頼らないで私はもっと読んだ人が分かるようなものを書きたいと思う。
そう思いつつ、やはり何よりも自分のために書いているものであるので読者のことを想定しようにもかなり低い限界がある。私のブログは閲覧数からすると読者の少ない部類であるし、誰でもない架空の読者を想定して書くことはあっても実在する特定の誰かが読むことを想定して書くなんて想像もつかない。大体どんな読者をいくら想定しようが文法語法の誤りが減るわけでもなければ文章の筋道が立つわけでもない。言葉の勉強をしよう。
言葉の勉強の一環として昨日から中学や高校の学習参考書をいくつか取り寄せて、中身を読んだり問題を解いてみたりしている。これが非常に面白い。私は読書の習慣のあるほうだと思うが、ある文章に書かれていることにどのような意味や書き手の意図があるとすれば整合性が取れるか、また常識的な感覚で理解される結論が導かれるか、ということは今まであまり考えてこなかったように思う。中学高校と殆ど授業に出なかったのであるからそれが身に着いていないのは当たり前である。
また大学以降で触れられる学問というのは基本的に「人間は殆ど何も知らないし簡単に誤る」という前提の下に「どうやら確からしいこと」を探ることで普遍的真理に近づこうとするものであると思う。その中で限定された条件での結論を出すのが論文であったり研究であったりするのであるが、高校までの中等教育において為されるのは既に確実であろうと思われていることが何故確実であると云えるかを理解する営みである。したがって正解が無いといけない。
私は正解なんて大の苦手だが、言葉の使い方についてみんなが知っている正解を知らないために今困っているわけだから少しは正解を知っておきたいところである。
そういえば私は幼い頃、「生命保険に入る」という言葉を聞いて「生命保険に入れば死んでも生き返れる」という認識を持っていた。その時点から暫くの間「大人になったら生命保険に100回くらい入ろう」と思っていた。言葉の使い方の誤りどころの話ではなく、生まれた時から何かがおかしかったのであろう。
このハピスロ世代の自分のブログを遡って読んでみても「これは何について書いてあるんだろう」と思うことが珍しくない。文法や語法の誤りに至っては自分で自分のことが心配になるほどである。コメントを下さる方がいらっしゃるがその方々の読解力や想像力に驚愕する。彼らの力にばかり頼らないで私はもっと読んだ人が分かるようなものを書きたいと思う。
そう思いつつ、やはり何よりも自分のために書いているものであるので読者のことを想定しようにもかなり低い限界がある。私のブログは閲覧数からすると読者の少ない部類であるし、誰でもない架空の読者を想定して書くことはあっても実在する特定の誰かが読むことを想定して書くなんて想像もつかない。大体どんな読者をいくら想定しようが文法語法の誤りが減るわけでもなければ文章の筋道が立つわけでもない。言葉の勉強をしよう。
言葉の勉強の一環として昨日から中学や高校の学習参考書をいくつか取り寄せて、中身を読んだり問題を解いてみたりしている。これが非常に面白い。私は読書の習慣のあるほうだと思うが、ある文章に書かれていることにどのような意味や書き手の意図があるとすれば整合性が取れるか、また常識的な感覚で理解される結論が導かれるか、ということは今まであまり考えてこなかったように思う。中学高校と殆ど授業に出なかったのであるからそれが身に着いていないのは当たり前である。
また大学以降で触れられる学問というのは基本的に「人間は殆ど何も知らないし簡単に誤る」という前提の下に「どうやら確からしいこと」を探ることで普遍的真理に近づこうとするものであると思う。その中で限定された条件での結論を出すのが論文であったり研究であったりするのであるが、高校までの中等教育において為されるのは既に確実であろうと思われていることが何故確実であると云えるかを理解する営みである。したがって正解が無いといけない。
私は正解なんて大の苦手だが、言葉の使い方についてみんなが知っている正解を知らないために今困っているわけだから少しは正解を知っておきたいところである。
そういえば私は幼い頃、「生命保険に入る」という言葉を聞いて「生命保険に入れば死んでも生き返れる」という認識を持っていた。その時点から暫くの間「大人になったら生命保険に100回くらい入ろう」と思っていた。言葉の使い方の誤りどころの話ではなく、生まれた時から何かがおかしかったのであろう。
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