tinc さんの日記
2020
10月
11
(日)
19:09
本文
私は出生以来ずっと貧乏暮らしをしている。世には当然私より貧しくその貧しさ故に飢餓や災害や病気や暴力や戦争やその他とにかく悪い何かの被害によって自由や安全を侵害され不便や不幸に見舞われたり死去したりする人も多いのであるが、私が狭小な自分の生活の中で出会う人々と比較して自身を貧しいと実感することもまた多い。貧富は客観的で絶対的な性質であると同時に主観的で相対的な側面も持っている。
問題は私が自身のこの貧乏をいかに評価すべきかを知らないことである。これは現代という時代の日本という国で生活していることによって上に例示したようなもっと劣悪な事態に遭遇する可能性から遠ざかっていることもあるという、云わば「本当の貧しさを知らない」ことにもよるであろうし、貧すれば鈍すという言い回しにあるように日々の生活の質が低いことによって豊かさなるものを知らないでいるために自身の貧しさを理解していないということにもよるであろう。つまり指標が無いのだと思う。
これが経済的な豊かさというお金についてのことであればまだ他の人が口座に1000万円を持っているのに私が200万円しか持っていないとか、有価証券や不動産をあの人は持っていて私は持っていないとかいうことで何となく自分の立場というものも見えることがあるのだが、時間的な豊かさということになるともっと難しい。同じ1時間なら1時間を何をして過ごすかということの価値は時間だけで比較できないので少なくとも一つの別の要素が必要になる。
お金や時間はとても大きな概念で、無学な私には理解の困難なものである。お金は人間社会における約束事という性格があるので話を聞けばまだ分かるような気もするところもあるものの、時間は人間が絶滅した後も存在するであろうし物理学においても哲学においても扱いに困るところのあるものらしいから理解を試みることを諦めそうになる。
そして一人の人間の精神的な豊かさなどという話になればもうお手上げである。ある人が幸せかどうか、その幸せの価値はどれくらいか、そんな在るのか無いのかも分からないし在るとしてどうやって測るのかも決めようの無いものについて合意を形成するなんて途方も無い試みに思える。
私は大学を中退後、今から数年前のある時まで小さな企業でサラリーマンをしていた。目的意識も何も持たず、「ともかく人間はお金を稼いで生活を送るべきもの」というぼんやりとした認識があったからそうしていたのである。その会社を解散するという話が出て以来は私の意識は「適当に生きてさっさと死のう」というものに変わり、まあ随分その意識の通り適当に生きて楽しくやらせて頂いたものである。その間も貧しかったが、どうもお金をたくさん持とうという気にはならなかった。現在の私の全財産は普通口座の数百万円のみである。次の仕事が見つからない限りは減ってゆくだけのもので、細く短くなってゆくばかりの命綱であることは理解しているつもりなのだが、これが十倍、百倍になったら私は嬉しいのだろうか、もっと安心するのだろうか、と考えても良い未来は思い浮かばない。どぶに捨てるような使い方をする可能性のほうがもっともらしく思われる。
守衛のいる大きな家に住みたくもないし、自動車も欲しくない。お酒は飲めないからヴィンテージのワインも飲んでももどしてしまうだけだろう。お金があっても私が買うのは古靴や現存しないブランドの古着であろう。そのほうがかっこいいから。また100円ショップや300円ショップの犬や猫やスマイリーフェイスのあしらわれた雑貨であろう。そのほうがかわいいから。
私はかつて営業マンをしていた頃に今まで手にしたことの無い額の歩合を振り込まれ、上司からずいぶんと誉められた時に、「これを嬉しいと思わないといけないのか」と苦々しく思ったことを思い出す。私は例えば誰かが何色を好きかとか、何にでもなれるとしたら何になりたいかとか、素数や量子についてどう思うかとか、その人の好きな誰かと一緒にどこへ行きたいかとか、そういうことを聞かせてもらえた時のほうがずっと嬉しい。犬や猫が元気そうだと嬉しいし、樹木や空や雨の美しさに心を奪われると嬉しい。
私の楽しみなり幸せなりとお金との関係は希薄に見えるので、私は尚更貧乏を脱そうという動機を持たずにいる。今仕事を探しているのは働くことも場合によっては楽しいと思うからである。
この瞬間にも死ぬかもしれないが、ハッピーにスローに。
問題は私が自身のこの貧乏をいかに評価すべきかを知らないことである。これは現代という時代の日本という国で生活していることによって上に例示したようなもっと劣悪な事態に遭遇する可能性から遠ざかっていることもあるという、云わば「本当の貧しさを知らない」ことにもよるであろうし、貧すれば鈍すという言い回しにあるように日々の生活の質が低いことによって豊かさなるものを知らないでいるために自身の貧しさを理解していないということにもよるであろう。つまり指標が無いのだと思う。
これが経済的な豊かさというお金についてのことであればまだ他の人が口座に1000万円を持っているのに私が200万円しか持っていないとか、有価証券や不動産をあの人は持っていて私は持っていないとかいうことで何となく自分の立場というものも見えることがあるのだが、時間的な豊かさということになるともっと難しい。同じ1時間なら1時間を何をして過ごすかということの価値は時間だけで比較できないので少なくとも一つの別の要素が必要になる。
お金や時間はとても大きな概念で、無学な私には理解の困難なものである。お金は人間社会における約束事という性格があるので話を聞けばまだ分かるような気もするところもあるものの、時間は人間が絶滅した後も存在するであろうし物理学においても哲学においても扱いに困るところのあるものらしいから理解を試みることを諦めそうになる。
そして一人の人間の精神的な豊かさなどという話になればもうお手上げである。ある人が幸せかどうか、その幸せの価値はどれくらいか、そんな在るのか無いのかも分からないし在るとしてどうやって測るのかも決めようの無いものについて合意を形成するなんて途方も無い試みに思える。
私は大学を中退後、今から数年前のある時まで小さな企業でサラリーマンをしていた。目的意識も何も持たず、「ともかく人間はお金を稼いで生活を送るべきもの」というぼんやりとした認識があったからそうしていたのである。その会社を解散するという話が出て以来は私の意識は「適当に生きてさっさと死のう」というものに変わり、まあ随分その意識の通り適当に生きて楽しくやらせて頂いたものである。その間も貧しかったが、どうもお金をたくさん持とうという気にはならなかった。現在の私の全財産は普通口座の数百万円のみである。次の仕事が見つからない限りは減ってゆくだけのもので、細く短くなってゆくばかりの命綱であることは理解しているつもりなのだが、これが十倍、百倍になったら私は嬉しいのだろうか、もっと安心するのだろうか、と考えても良い未来は思い浮かばない。どぶに捨てるような使い方をする可能性のほうがもっともらしく思われる。
守衛のいる大きな家に住みたくもないし、自動車も欲しくない。お酒は飲めないからヴィンテージのワインも飲んでももどしてしまうだけだろう。お金があっても私が買うのは古靴や現存しないブランドの古着であろう。そのほうがかっこいいから。また100円ショップや300円ショップの犬や猫やスマイリーフェイスのあしらわれた雑貨であろう。そのほうがかわいいから。
私はかつて営業マンをしていた頃に今まで手にしたことの無い額の歩合を振り込まれ、上司からずいぶんと誉められた時に、「これを嬉しいと思わないといけないのか」と苦々しく思ったことを思い出す。私は例えば誰かが何色を好きかとか、何にでもなれるとしたら何になりたいかとか、素数や量子についてどう思うかとか、その人の好きな誰かと一緒にどこへ行きたいかとか、そういうことを聞かせてもらえた時のほうがずっと嬉しい。犬や猫が元気そうだと嬉しいし、樹木や空や雨の美しさに心を奪われると嬉しい。
私の楽しみなり幸せなりとお金との関係は希薄に見えるので、私は尚更貧乏を脱そうという動機を持たずにいる。今仕事を探しているのは働くことも場合によっては楽しいと思うからである。
この瞬間にも死ぬかもしれないが、ハッピーにスローに。
閲覧(1068)
カテゴリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
|
コメントを書く |
---|
コメントを書くにはログインが必要です。 |