tinc さんの日記
2020
10月
9
(金)
23:20
本文
私はジーンズが好きで眠る時には眠る時のためのジーンズを穿く。怪訝に思われがちであるが、私に関して怪訝に思われることの中ではまだ常識の範囲に近い。
しかし姉のところに居候するようになってからは、当の姉からこのことに対する苦言が度々ある。間違いなく寝苦しいし洗濯後に乾き難いので洗い替えも面倒であろうということが理由である。
現在洗濯は全て私が担当しており、姉の眠る時に着ている私が名称も分からないようなひらひらした薄い衣服のほうが余程洗濯に気を遣うという言い分も私にはある。そうは言っても私は月々の家賃の半額を姉に手渡して間借りしているだけの身分であり、賃貸契約は姉の名義であること等もあって弱い立場であるため私はこの干渉に対抗するのに苦労している。
私は他人と同じ空間で生活をするということを長らく経験していなかった。生家を出てからはずっと単身でアパートを借りて暮らしていたため、寝具ひとつ洗濯ひとつを取っても居所を同じくする他人との折衝を要するということに今になって戸惑いを覚えている。例えば私は洗濯機で洗濯した衣類を干す際に、折り畳んで掌で叩いて粗方の皺取りをする。姉は衣類の一端を持ってはたくようにして皺を取れと言う。姉のやり方のほうが時間も手間もかからないことを私も承知しているが、そのやり方は力加減を間違えると特に繊維密度の低い衣類の傷みや型崩れに繋がることがあるので私は避けたいと思っているのである。
先日もこのブログに家事負担の大きさは家事に疎い人間の想像を遥かに上回るという感想を書かせて頂いたが、家事は自身のために自身の思想や嗜好のみでできるものではなく家全体やそこに共に住まう他人のためのものでもあるので、身体的な労力を要する以上に知的な能力や感情的な資源の投入を求められるものであると思う。他人の都合を考えながら何かをするということは負荷の掛かるものである。
また姉からの苦言は私の寝具や物干しに留まらない。
姉は姉と話をする際の私の態度が好きでないということを度々述べる。私の表情と声があまりに平坦で、私のほうから姉へ何かを話すということが殆ど無いことが不満であるというのが主訴のようである。また例えば私がハローワークへ行った日に姉が「どんな様子であったか」と私に尋ねる時、私が答えるのは良さそうだと思った求人情報の大まかな部分とそれに実際に応募したか否かである。ところが姉にとってはその情報だけでは私が何も述べていないに等しく、私の他に求職に来所していた人々はどのような印象であったか、窓口で対応して下さったハローワーク職員の方はどんな人であったか、道すがらどういう風景を見て何を感じたか、ということまで話して初めて私は姉へ話をしたことになるらしい。
姉が私の様子を気に入らないことは以前から言われていたことではあるものの、同じ空間で過ごす時間が増えたことで意識に上る機会が飛躍的に増えたためか直接の要求も飛躍的に増大した。要求されたからといって応えるということではないが、姉がどのような思考や感情に基いて私へ何かを要求するのかを私は現時点で知らないのでそのあたりから聞き取ろうと思っている。
そして聞き取るにもその私の聞き取り方が姉にとっては不足のものであるわけだから、一昨日あたりから私は今まで殆ど視聴しなかったテレビを点けて家事をするようにしている。広くコミュニケーションと呼ばれているものにはおそらく一種の型のようなものがあり、そこには表情や声の抑揚や間の取り方や提供すべき情報の種類というものが入っている。私がそれらを学ぶことができれば姉も満足し、私の好奇心も満たされて双方良しとなるかもしれない。
人づきあいに長けた人は世に多く、それらの人々がずっと以前から習得していることを私はようやく学ぼうとしているとも云える。遅れは遅れである。しかしものを学ぶということは遅れてでも諦めないほうが良いと私は思うので、うるさい姉をひとまず自分の先生と思ってやってみようと考えている。
しかし姉のところに居候するようになってからは、当の姉からこのことに対する苦言が度々ある。間違いなく寝苦しいし洗濯後に乾き難いので洗い替えも面倒であろうということが理由である。
現在洗濯は全て私が担当しており、姉の眠る時に着ている私が名称も分からないようなひらひらした薄い衣服のほうが余程洗濯に気を遣うという言い分も私にはある。そうは言っても私は月々の家賃の半額を姉に手渡して間借りしているだけの身分であり、賃貸契約は姉の名義であること等もあって弱い立場であるため私はこの干渉に対抗するのに苦労している。
私は他人と同じ空間で生活をするということを長らく経験していなかった。生家を出てからはずっと単身でアパートを借りて暮らしていたため、寝具ひとつ洗濯ひとつを取っても居所を同じくする他人との折衝を要するということに今になって戸惑いを覚えている。例えば私は洗濯機で洗濯した衣類を干す際に、折り畳んで掌で叩いて粗方の皺取りをする。姉は衣類の一端を持ってはたくようにして皺を取れと言う。姉のやり方のほうが時間も手間もかからないことを私も承知しているが、そのやり方は力加減を間違えると特に繊維密度の低い衣類の傷みや型崩れに繋がることがあるので私は避けたいと思っているのである。
先日もこのブログに家事負担の大きさは家事に疎い人間の想像を遥かに上回るという感想を書かせて頂いたが、家事は自身のために自身の思想や嗜好のみでできるものではなく家全体やそこに共に住まう他人のためのものでもあるので、身体的な労力を要する以上に知的な能力や感情的な資源の投入を求められるものであると思う。他人の都合を考えながら何かをするということは負荷の掛かるものである。
また姉からの苦言は私の寝具や物干しに留まらない。
姉は姉と話をする際の私の態度が好きでないということを度々述べる。私の表情と声があまりに平坦で、私のほうから姉へ何かを話すということが殆ど無いことが不満であるというのが主訴のようである。また例えば私がハローワークへ行った日に姉が「どんな様子であったか」と私に尋ねる時、私が答えるのは良さそうだと思った求人情報の大まかな部分とそれに実際に応募したか否かである。ところが姉にとってはその情報だけでは私が何も述べていないに等しく、私の他に求職に来所していた人々はどのような印象であったか、窓口で対応して下さったハローワーク職員の方はどんな人であったか、道すがらどういう風景を見て何を感じたか、ということまで話して初めて私は姉へ話をしたことになるらしい。
姉が私の様子を気に入らないことは以前から言われていたことではあるものの、同じ空間で過ごす時間が増えたことで意識に上る機会が飛躍的に増えたためか直接の要求も飛躍的に増大した。要求されたからといって応えるということではないが、姉がどのような思考や感情に基いて私へ何かを要求するのかを私は現時点で知らないのでそのあたりから聞き取ろうと思っている。
そして聞き取るにもその私の聞き取り方が姉にとっては不足のものであるわけだから、一昨日あたりから私は今まで殆ど視聴しなかったテレビを点けて家事をするようにしている。広くコミュニケーションと呼ばれているものにはおそらく一種の型のようなものがあり、そこには表情や声の抑揚や間の取り方や提供すべき情報の種類というものが入っている。私がそれらを学ぶことができれば姉も満足し、私の好奇心も満たされて双方良しとなるかもしれない。
人づきあいに長けた人は世に多く、それらの人々がずっと以前から習得していることを私はようやく学ぼうとしているとも云える。遅れは遅れである。しかしものを学ぶということは遅れてでも諦めないほうが良いと私は思うので、うるさい姉をひとまず自分の先生と思ってやってみようと考えている。
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