tinc さんの日記
2020
8月
22
(土)
21:16
本文
懐かしいという感情にあまり馴染みが無い。皆無ではないものの子どもの頃に初めて聴いた曲は今聴けば新たな発見や感想があることが殆どだし、映画も絵画も詩も小説も然りである。付き合いの長い人でも生きていれば生活の様子も頭の中身も変わってゆく。時間の経過によって懐かしい何かとそうでない何かが分かたれるのではなく、懐かしさは現時点での気分によるところが大きいような気がしている。
私には親しい人が何人かいる。その人たちとは話をしたり一緒に何かをしたりするのであるが、私はその人たちの誰に関しても確かなことなど何も知らない。ある人は優しい。ある人は賢い。ある人は格好が良い。それらは全て私の中で起こるはたらきによって私が持つ感想であって、その人たち自身ではない。私が誰かを評する時、私が言い表しているのはその人たちの姿というよりも己の姿である。私自身が何に注意を引かれ、何に価値を見出しているかがその評に映されるものと思う。
私の出身地は地方の田舎である。しかし徐々に開発が進み、舗装や整理が続いているという。ある時同級生の一人から進行する事態を嘆き過去を懐かしむ内容のメッセージが届いた。それに対して私は「たとえ失われたものを取り戻そうとするとしても、われわれには今を生きることしかできない」という趣旨の返信をした。それは私の偽らざる心情であったとしても私の心情に過ぎない。彼が何かを懐かしむことや現在を嘆くことの意味をいささかも損ない得ない。
私には今の自分しか見えないのかもしれない。しかし私の愛読書、ジョージ・オーウェルの『1984年』には「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者は過去を支配する」という有名な言葉がある。また私の好きなヴァイツゼッカーの演説には「過去に対して目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という有名な一文がある。過去に起こってしまってもはや変えようのないことを変えられると考えるのは誤りである。私には私の解釈しか持てないとしても、私の解釈と無関係の事実が存在することを否定することはできない。懐かしさが私にはあまりぴんと来ないとしても、今に向き合うのと同じ誠実さを持って過去に目を向ける必要がある。
私には親しい人が何人かいる。その人たちとは話をしたり一緒に何かをしたりするのであるが、私はその人たちの誰に関しても確かなことなど何も知らない。ある人は優しい。ある人は賢い。ある人は格好が良い。それらは全て私の中で起こるはたらきによって私が持つ感想であって、その人たち自身ではない。私が誰かを評する時、私が言い表しているのはその人たちの姿というよりも己の姿である。私自身が何に注意を引かれ、何に価値を見出しているかがその評に映されるものと思う。
私の出身地は地方の田舎である。しかし徐々に開発が進み、舗装や整理が続いているという。ある時同級生の一人から進行する事態を嘆き過去を懐かしむ内容のメッセージが届いた。それに対して私は「たとえ失われたものを取り戻そうとするとしても、われわれには今を生きることしかできない」という趣旨の返信をした。それは私の偽らざる心情であったとしても私の心情に過ぎない。彼が何かを懐かしむことや現在を嘆くことの意味をいささかも損ない得ない。
私には今の自分しか見えないのかもしれない。しかし私の愛読書、ジョージ・オーウェルの『1984年』には「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者は過去を支配する」という有名な言葉がある。また私の好きなヴァイツゼッカーの演説には「過去に対して目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という有名な一文がある。過去に起こってしまってもはや変えようのないことを変えられると考えるのは誤りである。私には私の解釈しか持てないとしても、私の解釈と無関係の事実が存在することを否定することはできない。懐かしさが私にはあまりぴんと来ないとしても、今に向き合うのと同じ誠実さを持って過去に目を向ける必要がある。
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