ひろひろ48 さんの日記
2020
8月
18
(火)
11:18
本文
1960年代、女性の日系アメリカ人
お盆休みもあり、日曜16日の次の月曜朝刊は、休刊。
月曜の夕刊から通常の発行。
夕刊も、「大波小波」とか、いい記事があり楽しみにしている。昨日の夕刊から始まった特集の連載なのか、米 女性参政権100年 「七転び八起き 1」
パツィー・タケモト・ミンク下院議員、こんなすごい人がいたとは、知りませんでした。いろんな人がいて、いろんな要素、時代、タイミング、その人の考え、があいまって、時代を変えていくのだなと、感じます。
ちょっと長いけど、その記事を紹介します:
さまざまな差別と闘った日系3世パツィー・タケモト・ミンク 教育での性差別禁ずる法成立に尽力
◇七転び八起き パツィー・ミンクの闘い(1)
1960年7月12日、米西部ロサンゼルスで開かれていた民主党大会。最終日にケネディ、ジョンソンの正副大統領候補を選んだ党大会は、政策綱領を巡り紛糾していた。米議会図書館によると、黒人差別の根強い南部州の白人上院議員が、学校での人種隔離撤廃を始める目標時期など、原案に明記された公民権の項目を削除し、骨抜きを図ったからだ。
小柄な女性の演説が流れを決めた。「私は見解の違いには寛容です。だが、それが民主主義の根本を打ち壊すような人種差別や偏見であった場合、自らの寛容さを全く失います」
日系3世のパツィー・タケモト・ミンク。その前年に州に昇格したばかりのハワイから来た、まだ32歳と若い代議員が約1万人の各州代議員らに力強く訴えると、大歓声がわき起こり、綱領は原案通り可決した。
ミンクの娘・グウェンドリン(68)は「第2次世界大戦中、日系人は『日本人が祖先』というだけで、政府からいとも簡単に市民の自由を奪われた。その経験と懸念がすべての政策の根底にあった」と語る。
カリフォルニア大アーバイン校教授のジュディ・ウーはミンクが当時、党の進歩的な全国青年組織でネットワークを広げていたことに注目する。「旧世代に挑戦する新たな州から来たアジア系の女性…。ミンクはこれまで党になかった強力なシンボルとなった」
◆年功序列の「ボス政治」と相いれず
ミンクの進歩的な姿勢はハワイの民主党による年功序列の「ボス政治」(グウェンドリン)とは相いれなかった。州昇格により新たに実施された59年の初の連邦議会選で、ミンクは民主党から下院議員を目指した。だが当初、上院議員選に立候補する予定だった第2次大戦の英雄、ダニエル・イノウエが党の意向で下院選にくら替えしたため、予備選で惨敗を喫した。
64年、ミンクは再び下院選に挑戦する。シカゴ大法科大学院在籍中に知り合った夫のジョンを「選対本部長」に据え、グウェンドリンも手伝う草の根選挙を展開し、当選を果たした。
ミンク家には「だるま」があったという。「母は予備選に勝った時に一つ、本選挙に勝ってもうひとつ目入れをしていた」(グウェンドリン)。非白人女性で初の下院議員が誕生した。
ミンクの当選から約2週間さかのぼる10月17日、東京五輪の競泳女子で、米国代表の17歳が大会2つ目の金メダルを獲得し、世界から注目を浴びた。
ドナ・デバロナ(73)。当時伸び盛りのトップスイマーは大会直後に引退を余儀なくされる。最大の理由は単に「続けられる環境になかったから」。当時は今のように女子スポーツに対する奨学金制度もなかった。
ミンクは72年、教育機関に性差別を禁じる法案を同僚の女性議員と共同提案し、成立させた。「タイトル・ナイン」と呼ばれる法律はその後の女子教育、スポーツ環境を一変させた。
◆「女性だから…」全て不合格
米メディアによると、64年東京五輪の米国代表は男性267人、女性79人だったが、2016年のリオ五輪では女性292人、男性262人と12年のロンドンに続き女性が男性を上回った。
長く国際オリンピック委員会(IOC)の関連委員として女性の地位向上に努めてきたデバロナはミンクを「英雄」とたたえる。
実は、「タイトル・ナイン」には、4歳で医者を目指し、十数校の医学部を受験したものの、「女性だから」と全て不合格となったミンク自身の経験が反映されていた。=敬称略(ワシントン・岩田仲弘)
◇
米憲法で、女性参政権が認められて今月で100年。さまざまな差別と闘ったパツィー・タケモト・ミンクの生涯をたどりつつ、米国社会の今を考える。
*タイトル・ナイン: 連邦教育改正法第9編の通称で「何人も、連邦政府から助成を受けている教育プログラムや活動で性別を理由に排除されたり、利益の享受を拒否されたり、差別を受けたりすることがあってはならない」と定める。オバマ前政権は性差別にはセクハラや性暴力を含み、差別を禁じる対象にはトランスジェンダーも含まれるとする通達を出した。
お盆休みもあり、日曜16日の次の月曜朝刊は、休刊。
月曜の夕刊から通常の発行。
夕刊も、「大波小波」とか、いい記事があり楽しみにしている。昨日の夕刊から始まった特集の連載なのか、米 女性参政権100年 「七転び八起き 1」
パツィー・タケモト・ミンク下院議員、こんなすごい人がいたとは、知りませんでした。いろんな人がいて、いろんな要素、時代、タイミング、その人の考え、があいまって、時代を変えていくのだなと、感じます。
ちょっと長いけど、その記事を紹介します:
さまざまな差別と闘った日系3世パツィー・タケモト・ミンク 教育での性差別禁ずる法成立に尽力
◇七転び八起き パツィー・ミンクの闘い(1)
1960年7月12日、米西部ロサンゼルスで開かれていた民主党大会。最終日にケネディ、ジョンソンの正副大統領候補を選んだ党大会は、政策綱領を巡り紛糾していた。米議会図書館によると、黒人差別の根強い南部州の白人上院議員が、学校での人種隔離撤廃を始める目標時期など、原案に明記された公民権の項目を削除し、骨抜きを図ったからだ。
小柄な女性の演説が流れを決めた。「私は見解の違いには寛容です。だが、それが民主主義の根本を打ち壊すような人種差別や偏見であった場合、自らの寛容さを全く失います」
日系3世のパツィー・タケモト・ミンク。その前年に州に昇格したばかりのハワイから来た、まだ32歳と若い代議員が約1万人の各州代議員らに力強く訴えると、大歓声がわき起こり、綱領は原案通り可決した。
ミンクの娘・グウェンドリン(68)は「第2次世界大戦中、日系人は『日本人が祖先』というだけで、政府からいとも簡単に市民の自由を奪われた。その経験と懸念がすべての政策の根底にあった」と語る。
カリフォルニア大アーバイン校教授のジュディ・ウーはミンクが当時、党の進歩的な全国青年組織でネットワークを広げていたことに注目する。「旧世代に挑戦する新たな州から来たアジア系の女性…。ミンクはこれまで党になかった強力なシンボルとなった」
◆年功序列の「ボス政治」と相いれず
ミンクの進歩的な姿勢はハワイの民主党による年功序列の「ボス政治」(グウェンドリン)とは相いれなかった。州昇格により新たに実施された59年の初の連邦議会選で、ミンクは民主党から下院議員を目指した。だが当初、上院議員選に立候補する予定だった第2次大戦の英雄、ダニエル・イノウエが党の意向で下院選にくら替えしたため、予備選で惨敗を喫した。
64年、ミンクは再び下院選に挑戦する。シカゴ大法科大学院在籍中に知り合った夫のジョンを「選対本部長」に据え、グウェンドリンも手伝う草の根選挙を展開し、当選を果たした。
ミンク家には「だるま」があったという。「母は予備選に勝った時に一つ、本選挙に勝ってもうひとつ目入れをしていた」(グウェンドリン)。非白人女性で初の下院議員が誕生した。
ミンクの当選から約2週間さかのぼる10月17日、東京五輪の競泳女子で、米国代表の17歳が大会2つ目の金メダルを獲得し、世界から注目を浴びた。
ドナ・デバロナ(73)。当時伸び盛りのトップスイマーは大会直後に引退を余儀なくされる。最大の理由は単に「続けられる環境になかったから」。当時は今のように女子スポーツに対する奨学金制度もなかった。
ミンクは72年、教育機関に性差別を禁じる法案を同僚の女性議員と共同提案し、成立させた。「タイトル・ナイン」と呼ばれる法律はその後の女子教育、スポーツ環境を一変させた。
◆「女性だから…」全て不合格
米メディアによると、64年東京五輪の米国代表は男性267人、女性79人だったが、2016年のリオ五輪では女性292人、男性262人と12年のロンドンに続き女性が男性を上回った。
長く国際オリンピック委員会(IOC)の関連委員として女性の地位向上に努めてきたデバロナはミンクを「英雄」とたたえる。
実は、「タイトル・ナイン」には、4歳で医者を目指し、十数校の医学部を受験したものの、「女性だから」と全て不合格となったミンク自身の経験が反映されていた。=敬称略(ワシントン・岩田仲弘)
◇
米憲法で、女性参政権が認められて今月で100年。さまざまな差別と闘ったパツィー・タケモト・ミンクの生涯をたどりつつ、米国社会の今を考える。
*タイトル・ナイン: 連邦教育改正法第9編の通称で「何人も、連邦政府から助成を受けている教育プログラムや活動で性別を理由に排除されたり、利益の享受を拒否されたり、差別を受けたりすることがあってはならない」と定める。オバマ前政権は性差別にはセクハラや性暴力を含み、差別を禁じる対象にはトランスジェンダーも含まれるとする通達を出した。
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