tinc さんの日記
2020
8月
14
(金)
22:36
本文
夜勤明けに帰宅して間もなく電話が鳴った。私の姉の同僚の方からであり、職場で事故でもあったかと想像し少し慌てて電話に出た。
「あんたのお姉ちゃんに言い寄ってる男がいるよ!年収1,000万だって!」
「はあ」
「はあじゃなくて。心配でしょ!」
「いや、そう言われましても何を心配すればよいのか」
「悪い男かもしれないじゃん」
「そうかもしれませんが、私はその人を知らないんですよ」
「見にきなよ」
「嫌ですよ。その人も嫌だと思いますよ」
「でも気になるでしょ?」
「何がですか?」
「とにかく今度その男の写真撮って送るから!お姉ちゃんに連絡しな!」
という会話であった。
通話が終わるやいなや私は顔をしかめた。たぶん少し怒っていたと思う。
私は感情的な傾向が強く、自らの喜怒哀楽の動きに翻弄されながら日々の生活を送っている。へらへら笑ったりめそめそ泣いたり一人でしている分には勝手にやればよいのだが、怒りは特に外部に対象を持った場合の始末が悪くあまりお気に入りの感情でない。
私が自分の怒りを好きでないのは、それがしばしば歪な大義を伴うからである。自分の気に入らないことを正しくないことや本来あるべき姿から外れていることと認識し、物事を自分の好きな形にしようという力になってしまうのが厄介である。いかなる正しさも大義も私の感情の満足のためだけに存在するわけではないため、怒りにそれらを無理に当てはめようとすると必ず破綻を来す。これには逆の様相もあり、納得のゆかない正しさや大義のために感情を動員しようとすると意味のあることはできずに感情が疲弊して終わる。私の怒りは殆どの場合大義に馴染まない。
今回の件で試しに怒りを離れて考えてみると、姉の同僚は姉が私に干渉するのと同じくらい私が姉に干渉するものだという認識を持っている可能性も考えられる。姉の知り合いに会う際に私が受ける評には「意外と」とか「聞いてたよりも」とかの枕詞が伴うことが多いことから、姉から私に関して事実から乖離したことを聞かされている人もいるかもしれない。
私は拙速に「疲れているのに下らないことで電話をしてきて、その上姉へ連絡せよと命じるとはこの人は馬鹿ではないのか。電話になんか出なければよかった」と思ったのかもしれない。しかし私が疲れていることと誰かが私に電話をすることはあまり関係が無いようにも思う。誰かが馬鹿だからといってそのことを責める筋合いは無い。他人の事情も背景も考えず馬鹿にするなら私だって高々同じくらいの馬鹿だろう。誰だって馬鹿なことをすることがある。
今回の姉の同僚の行為には善意から来る部分もあるのだろうし、普段姉があれこれと私に手や口を出そうとするのも善意が混じっているのかもしれない。善意は必ずしも善ならずである。善とはこれである、と簡単に分かれば苦労はしない。
してみると他人のことに思いを巡らすことで私は自分の感情から少し自由になれるというところがある。大義に駆られる時も、その大義と対立したりあるいは単にそれを問題にしなかったりする人々のことを想像すると興奮も冷めることがあり、この点では感情と大義が不思議に似た動きをする。
他人の気持ちになるとかその立場を考えるとかいうことは広く世間では他人のためのこととされているようだが、私にとっては私自身のためになることであるようだ。他人を迷惑に感じることも多い日々であるとはいえ、もう少し感謝の念を持っていたほうが良いのかもしれない。
「あんたのお姉ちゃんに言い寄ってる男がいるよ!年収1,000万だって!」
「はあ」
「はあじゃなくて。心配でしょ!」
「いや、そう言われましても何を心配すればよいのか」
「悪い男かもしれないじゃん」
「そうかもしれませんが、私はその人を知らないんですよ」
「見にきなよ」
「嫌ですよ。その人も嫌だと思いますよ」
「でも気になるでしょ?」
「何がですか?」
「とにかく今度その男の写真撮って送るから!お姉ちゃんに連絡しな!」
という会話であった。
通話が終わるやいなや私は顔をしかめた。たぶん少し怒っていたと思う。
私は感情的な傾向が強く、自らの喜怒哀楽の動きに翻弄されながら日々の生活を送っている。へらへら笑ったりめそめそ泣いたり一人でしている分には勝手にやればよいのだが、怒りは特に外部に対象を持った場合の始末が悪くあまりお気に入りの感情でない。
私が自分の怒りを好きでないのは、それがしばしば歪な大義を伴うからである。自分の気に入らないことを正しくないことや本来あるべき姿から外れていることと認識し、物事を自分の好きな形にしようという力になってしまうのが厄介である。いかなる正しさも大義も私の感情の満足のためだけに存在するわけではないため、怒りにそれらを無理に当てはめようとすると必ず破綻を来す。これには逆の様相もあり、納得のゆかない正しさや大義のために感情を動員しようとすると意味のあることはできずに感情が疲弊して終わる。私の怒りは殆どの場合大義に馴染まない。
今回の件で試しに怒りを離れて考えてみると、姉の同僚は姉が私に干渉するのと同じくらい私が姉に干渉するものだという認識を持っている可能性も考えられる。姉の知り合いに会う際に私が受ける評には「意外と」とか「聞いてたよりも」とかの枕詞が伴うことが多いことから、姉から私に関して事実から乖離したことを聞かされている人もいるかもしれない。
私は拙速に「疲れているのに下らないことで電話をしてきて、その上姉へ連絡せよと命じるとはこの人は馬鹿ではないのか。電話になんか出なければよかった」と思ったのかもしれない。しかし私が疲れていることと誰かが私に電話をすることはあまり関係が無いようにも思う。誰かが馬鹿だからといってそのことを責める筋合いは無い。他人の事情も背景も考えず馬鹿にするなら私だって高々同じくらいの馬鹿だろう。誰だって馬鹿なことをすることがある。
今回の姉の同僚の行為には善意から来る部分もあるのだろうし、普段姉があれこれと私に手や口を出そうとするのも善意が混じっているのかもしれない。善意は必ずしも善ならずである。善とはこれである、と簡単に分かれば苦労はしない。
してみると他人のことに思いを巡らすことで私は自分の感情から少し自由になれるというところがある。大義に駆られる時も、その大義と対立したりあるいは単にそれを問題にしなかったりする人々のことを想像すると興奮も冷めることがあり、この点では感情と大義が不思議に似た動きをする。
他人の気持ちになるとかその立場を考えるとかいうことは広く世間では他人のためのこととされているようだが、私にとっては私自身のためになることであるようだ。他人を迷惑に感じることも多い日々であるとはいえ、もう少し感謝の念を持っていたほうが良いのかもしれない。
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