tinc さんの日記
2020
7月
31
(金)
10:29
本文
昨日書かせて頂いた「おばさん」なる呼称に関するブログを発端として、私の胸に今も棘を残すある出来事が思い出されて頭を離れない。
昨年、ある人と出掛けた時のことである。普段パンツ姿のその人は、その日待ち合わせの場所に現れた時は花柄のワンピースを着ていた。
私は思わず「可憐なお姿で」と口にした。可憐だと思ったからである。
その人はおどけたようにワンピースの裾を指で摘んで広げ、首を傾げてみせた。
道中の一軒の生花店の前でその人は私を引き止めた。そして私の好きな色を尋ね、店に入っていってその色の花を2輪買って出てきた。私の知らない綺麗な花であった。その人は2輪のうち1輪を私のブレザーの胸元に挿し、もう1輪を自分の髪留めに挿した。
そして笑って、「今日は可憐にいきましょう。可憐に」と言った。
私はその時点から気が気ではなかった。その人は「可憐」という評が本意でなく、花はその巧妙な復讐ではないかという気がした。
また私は「可憐」という言葉を軽々しく使ってはならないものだろうかとも思案し続けることになった。「女性は儚く美しくあるべきもの」という、ありがちで無自覚な男性の願望を私はその人に押し付けたのだろうかと何度も自分に問うた。
昼前からいろいろなところを一緒に巡り、朝の5時まで営業しているバーで夜通し色々な話をした。しかし私はずっと上の空だったように思う。
私は今でもその人と連絡を取る度にそのことを思い出し、そのことについて尋ねられずにいる。気になることをつい人に尋ねてしまう自分の性分が、正体の見えない理由で抑制されているのは珍しいと思う。
「おばさん」の呼称に少なからぬ否定的な意味が込められているように私は感じる。「可憐」という私の感想はその呼称と同じく、あまりにも一方的な、人を何かの檻に閉じ込めようとするかのようなものであったのかもしれない。
昨年、ある人と出掛けた時のことである。普段パンツ姿のその人は、その日待ち合わせの場所に現れた時は花柄のワンピースを着ていた。
私は思わず「可憐なお姿で」と口にした。可憐だと思ったからである。
その人はおどけたようにワンピースの裾を指で摘んで広げ、首を傾げてみせた。
道中の一軒の生花店の前でその人は私を引き止めた。そして私の好きな色を尋ね、店に入っていってその色の花を2輪買って出てきた。私の知らない綺麗な花であった。その人は2輪のうち1輪を私のブレザーの胸元に挿し、もう1輪を自分の髪留めに挿した。
そして笑って、「今日は可憐にいきましょう。可憐に」と言った。
私はその時点から気が気ではなかった。その人は「可憐」という評が本意でなく、花はその巧妙な復讐ではないかという気がした。
また私は「可憐」という言葉を軽々しく使ってはならないものだろうかとも思案し続けることになった。「女性は儚く美しくあるべきもの」という、ありがちで無自覚な男性の願望を私はその人に押し付けたのだろうかと何度も自分に問うた。
昼前からいろいろなところを一緒に巡り、朝の5時まで営業しているバーで夜通し色々な話をした。しかし私はずっと上の空だったように思う。
私は今でもその人と連絡を取る度にそのことを思い出し、そのことについて尋ねられずにいる。気になることをつい人に尋ねてしまう自分の性分が、正体の見えない理由で抑制されているのは珍しいと思う。
「おばさん」の呼称に少なからぬ否定的な意味が込められているように私は感じる。「可憐」という私の感想はその呼称と同じく、あまりにも一方的な、人を何かの檻に閉じ込めようとするかのようなものであったのかもしれない。
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