tinc さんの日記
2020
7月
30
(木)
08:02
本文
私は明後日からある知的障害者福祉施設に勤務することになっている。
かつては知的障害を持つ成人を、名前の後に「くん」「ちゃん」等を付けて呼んだりあるいは愛称なる別称で呼んだりすることが普通であったという。知的発達の度合いの目安として「n歳児程度」との尺度を用いる場面もあること等他の諸々の背景もあり馴染みやすかったのだろうと想像するが、かなり前からそのような呼称は単に虐待の一種と見なされているし私の感覚からしても単なる虐待である。
呼称で印象が変わるものだと思う。例えば私は日頃「おっさん」を自認しており、他所の子どもさんやその親御さんから意に反して「お兄さん」の扱いを受けるとあまり居心地が良くない。私は「お兄さん」という言葉に精悍さや活力などの印象を持っており、それらを現に持ち合わせない自分をその場で無理矢理に精悍で活力ある「お兄さん」にしなければならないのでは、というはたらきが心中に生じるので快適でないのだと思う。相手も気遣いで敢えて言って下さっているのだと思うので急に小劇場に立たされたようで苦労する。
それに対して「おっさん」は私にとっては親しみやすい愉快な中年男性の印象である。以前はどちらかというと嫌いな部類の人々を頭の中で「おっさん」の範疇に入れていた私も、いざおっさんになってみるとそのことを意識するだけで自分が親しみやすい愉快な人物になったような気がしてくるから不思議である。おそらく過去に都合の良い心境の変化があったのだろうが最早その経過は追えない。現実はともかく自分だけでも自分を愉快だと思っていれば気分が良くて結構である。
そして「おばさん」は私の中では半ば存在しないことになっている。知り合いにおばさんがいるか、と仮に尋ねられることがあったら私の回答は「該当者無し」である。
「おばさん」と自称する人は多く「もうおばさんだから」なる言い回しをよく耳にするものの、おばさんだから何だというのかが分からないために言葉に対して意味付けが成されていないことが一因ではないかと思う。もし「もうおっさんだから」と言われたら「『そろそろ仕事で楽がしたい』とか『あまり深酒はできない』とか『お洒落じゃなくても許してくれ』とかの意味だな」と思い浮かぶものが色々ある。また私が道を歩いていておっさんだと思う人は多いがおばさんだと思う人はいない。奇妙で顕著な非対称性が存在している。
私が近しいおっさん連中と集まって楽しく過ごすことがあるように、おばさんはおばさん同士で楽しく過ごすことがあるのだろうか。今の私には「世間」や「みんな」が見えないのと同じくらい「おばさん」が見えない。おばさんは神話の登場人物かもしれないと思う。
かつては知的障害を持つ成人を、名前の後に「くん」「ちゃん」等を付けて呼んだりあるいは愛称なる別称で呼んだりすることが普通であったという。知的発達の度合いの目安として「n歳児程度」との尺度を用いる場面もあること等他の諸々の背景もあり馴染みやすかったのだろうと想像するが、かなり前からそのような呼称は単に虐待の一種と見なされているし私の感覚からしても単なる虐待である。
呼称で印象が変わるものだと思う。例えば私は日頃「おっさん」を自認しており、他所の子どもさんやその親御さんから意に反して「お兄さん」の扱いを受けるとあまり居心地が良くない。私は「お兄さん」という言葉に精悍さや活力などの印象を持っており、それらを現に持ち合わせない自分をその場で無理矢理に精悍で活力ある「お兄さん」にしなければならないのでは、というはたらきが心中に生じるので快適でないのだと思う。相手も気遣いで敢えて言って下さっているのだと思うので急に小劇場に立たされたようで苦労する。
それに対して「おっさん」は私にとっては親しみやすい愉快な中年男性の印象である。以前はどちらかというと嫌いな部類の人々を頭の中で「おっさん」の範疇に入れていた私も、いざおっさんになってみるとそのことを意識するだけで自分が親しみやすい愉快な人物になったような気がしてくるから不思議である。おそらく過去に都合の良い心境の変化があったのだろうが最早その経過は追えない。現実はともかく自分だけでも自分を愉快だと思っていれば気分が良くて結構である。
そして「おばさん」は私の中では半ば存在しないことになっている。知り合いにおばさんがいるか、と仮に尋ねられることがあったら私の回答は「該当者無し」である。
「おばさん」と自称する人は多く「もうおばさんだから」なる言い回しをよく耳にするものの、おばさんだから何だというのかが分からないために言葉に対して意味付けが成されていないことが一因ではないかと思う。もし「もうおっさんだから」と言われたら「『そろそろ仕事で楽がしたい』とか『あまり深酒はできない』とか『お洒落じゃなくても許してくれ』とかの意味だな」と思い浮かぶものが色々ある。また私が道を歩いていておっさんだと思う人は多いがおばさんだと思う人はいない。奇妙で顕著な非対称性が存在している。
私が近しいおっさん連中と集まって楽しく過ごすことがあるように、おばさんはおばさん同士で楽しく過ごすことがあるのだろうか。今の私には「世間」や「みんな」が見えないのと同じくらい「おばさん」が見えない。おばさんは神話の登場人物かもしれないと思う。
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