tinc さんの日記
2020
7月
26
(日)
18:46
本文
私の感情は身勝手な動きをする傾向にあり、相手への好奇心から不躾な質問をしてしまったり、相手の心情への配慮を欠いた感想を述べてしまったりという振る舞いの例が枚挙の暇無くある。これらは善行や他者の尊重を重視する私の価値観に反する場合も多いので、防止のために様々の知識や技術の習得を志向しその方面の書を読む時がある。
今日はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を再読した。「愛は先天的なものではなく習得されるべき技術である」旨を説くこの本は現代においては大いに相対化され問題や欠陥への指摘も蓄積されているが、それでもなお私にとっては他者に相対するにあたっての強力な指針である。
私は特に愛情というものに鈍感で無知である。冒頭に述べたように身勝手なほうなので誰かへ愛情を持って接することはまず無いし、仮に誰かから愛情を向けられたことがあるとしてもそのことを察知したことは無い。他者との間に愛情に満ちた関係を形成することを望む人は多いが、その類の話は私には理解に時間を要する。
一方では私は愛情が善に関係するがゆえに重要なものであるとも認識している。幼少期に高質で大量の愛情を注がれた人のほうがそうでない人よりも幸福を感じやすく、利他的な行動を取る余力も有しやすい傾向にあるということは真であろうと思う。また愛情ある人のほうがそうでない人よりも外部の資源に依存しそれを食い潰す習慣に陥りにくいということもまた真であると思う。「大事に育てられたのでわがままになった」という例が反例のように云われることがあるが、それは「大事に育てられた」のではなく「充分な教育や社会化の機会を与えられなかった」のであるとした方が適当な解釈ではないかと思う。やはり愛情はその受け手に善行の機会を与えるものになり得る。
そのようなことを考えるので私は相手が望む場合にはその人へ愛情をもたらすことのできる人物になりたいと願うのであるが、根本的に感情が身勝手な傾向にあるため付け焼刃の試みは愛情の名を借りた要求や支配になるのではないかと懸念もしている。愛情の経験の多い人であっても愛情とは何であってそれをどのように運用するのが愛であるのかという問いに煩悶することもあるだろうに、私がそれを試みて意義があるのかとも思う。しかし関心は止まない。
私には何も簡単に思われない。それだけ世の中が面白いということでもあるが、何とかもう少し簡単にならないかとぼやいている。
今日はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を再読した。「愛は先天的なものではなく習得されるべき技術である」旨を説くこの本は現代においては大いに相対化され問題や欠陥への指摘も蓄積されているが、それでもなお私にとっては他者に相対するにあたっての強力な指針である。
私は特に愛情というものに鈍感で無知である。冒頭に述べたように身勝手なほうなので誰かへ愛情を持って接することはまず無いし、仮に誰かから愛情を向けられたことがあるとしてもそのことを察知したことは無い。他者との間に愛情に満ちた関係を形成することを望む人は多いが、その類の話は私には理解に時間を要する。
一方では私は愛情が善に関係するがゆえに重要なものであるとも認識している。幼少期に高質で大量の愛情を注がれた人のほうがそうでない人よりも幸福を感じやすく、利他的な行動を取る余力も有しやすい傾向にあるということは真であろうと思う。また愛情ある人のほうがそうでない人よりも外部の資源に依存しそれを食い潰す習慣に陥りにくいということもまた真であると思う。「大事に育てられたのでわがままになった」という例が反例のように云われることがあるが、それは「大事に育てられた」のではなく「充分な教育や社会化の機会を与えられなかった」のであるとした方が適当な解釈ではないかと思う。やはり愛情はその受け手に善行の機会を与えるものになり得る。
そのようなことを考えるので私は相手が望む場合にはその人へ愛情をもたらすことのできる人物になりたいと願うのであるが、根本的に感情が身勝手な傾向にあるため付け焼刃の試みは愛情の名を借りた要求や支配になるのではないかと懸念もしている。愛情の経験の多い人であっても愛情とは何であってそれをどのように運用するのが愛であるのかという問いに煩悶することもあるだろうに、私がそれを試みて意義があるのかとも思う。しかし関心は止まない。
私には何も簡単に思われない。それだけ世の中が面白いということでもあるが、何とかもう少し簡単にならないかとぼやいている。
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