tinc さんの日記
2020
7月
23
(木)
21:00
本文
去る3月に私が馘首されたパート先で私に仕事を教えた先輩は20代半ばくらいの人だった。所謂お綺麗なお嬢さんといった風情のその先輩は、店にその先輩と私の2人だけになったある時におもむろに自分の身分証明書を私に見せ、「わたし、男なんですよ」と言った。私は馬鹿まるだしで「はあ」と答えた。「性別 男」との記載は見えたものの、先輩の言わんとしていることは測りかねた。
先輩は「信じられなかったらロッカールームで体触ってもいいですよ」と冷たく続けた。
私は「触りませんよ。触りませんけど、なぜ私にそのことを話すんですか」と尋ねた。
「別に」と先輩は言い、暫く黙った後に「わかってくれるかと思って」と続けた。最後の方は涙声になっていてあまりよく聞き取れなかった。先輩はカウンターの陰にしゃがみこんで顔を伏せてしまっていた。
息が詰まるような感じがした。私は拭かなくてもよいグラスを拭きながら、ぼそぼそと自分の思うことを述べた。
私は今まで先輩を女性だと思っていて、今後どう思うかは分からない。しかし先輩の性に関する私の認識などは取るに足らないはずのものであり、なぜなら先輩は自分のなりたい自分である権利を持っているからである。女性でありたければ女性であればよいし、他の何かがよければそれを選べばよい。何にもなりたくないならならなければよいと思う。誰かが誰かを様々に規定するが、それは自分への規定とは独立である。現時点でいかなる社会においても実現されたことがないとしても、人間は平等で自由である。
そのような内容であったと記憶している。そして私は最後に「もし何か私にできることがあったら教えて下さい」と言った。
先輩はエプロンで目元を拭いながら立ち上がり、「ひとつお願いがあるんですけど。メイク直してきますから目を閉じててもらえますか」と言った。
私はそうした。
すると唇に温かいものが触れて、思わず目を開けると先輩の顔がごく近くにあった。
「何です?」と私は言った。
「何でしょう」と先輩は言い、笑った。そして「お先に失礼します」と言ってロッカールームへ姿を消し、ホールへは戻ってこなかった。
私はその後閉店までの数十分を上の空で過ごした。閉店業務を一人でこなすのをけっこう大変に感じたことを憶えている。
次の日からも先輩は以前と同じように出勤し業務に従事した。しかし詩のような文章や草花の写真などを私の携帯へLINEで送ってくれるようになった。また私が馘になった時には労働基準監督署へ相談に行ってくれたようだということを、最近になって別の先輩から聞いた。
明日はその先輩と久しぶりに会って、さる展覧会へ行くことになっている。しかし私は過去に「何かできることがあったら教えて下さい」と言ったのであるから先輩は今何かの助力を要している可能性もある。自分に新しい仕事が決まったからといって喜んでばかりもいられない。気を引き締めるのは得意ではないが、明日はそうするべき日になるかもしれない。
先輩は「信じられなかったらロッカールームで体触ってもいいですよ」と冷たく続けた。
私は「触りませんよ。触りませんけど、なぜ私にそのことを話すんですか」と尋ねた。
「別に」と先輩は言い、暫く黙った後に「わかってくれるかと思って」と続けた。最後の方は涙声になっていてあまりよく聞き取れなかった。先輩はカウンターの陰にしゃがみこんで顔を伏せてしまっていた。
息が詰まるような感じがした。私は拭かなくてもよいグラスを拭きながら、ぼそぼそと自分の思うことを述べた。
私は今まで先輩を女性だと思っていて、今後どう思うかは分からない。しかし先輩の性に関する私の認識などは取るに足らないはずのものであり、なぜなら先輩は自分のなりたい自分である権利を持っているからである。女性でありたければ女性であればよいし、他の何かがよければそれを選べばよい。何にもなりたくないならならなければよいと思う。誰かが誰かを様々に規定するが、それは自分への規定とは独立である。現時点でいかなる社会においても実現されたことがないとしても、人間は平等で自由である。
そのような内容であったと記憶している。そして私は最後に「もし何か私にできることがあったら教えて下さい」と言った。
先輩はエプロンで目元を拭いながら立ち上がり、「ひとつお願いがあるんですけど。メイク直してきますから目を閉じててもらえますか」と言った。
私はそうした。
すると唇に温かいものが触れて、思わず目を開けると先輩の顔がごく近くにあった。
「何です?」と私は言った。
「何でしょう」と先輩は言い、笑った。そして「お先に失礼します」と言ってロッカールームへ姿を消し、ホールへは戻ってこなかった。
私はその後閉店までの数十分を上の空で過ごした。閉店業務を一人でこなすのをけっこう大変に感じたことを憶えている。
次の日からも先輩は以前と同じように出勤し業務に従事した。しかし詩のような文章や草花の写真などを私の携帯へLINEで送ってくれるようになった。また私が馘になった時には労働基準監督署へ相談に行ってくれたようだということを、最近になって別の先輩から聞いた。
明日はその先輩と久しぶりに会って、さる展覧会へ行くことになっている。しかし私は過去に「何かできることがあったら教えて下さい」と言ったのであるから先輩は今何かの助力を要している可能性もある。自分に新しい仕事が決まったからといって喜んでばかりもいられない。気を引き締めるのは得意ではないが、明日はそうするべき日になるかもしれない。
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